なぜならこの世界は

阿波野治

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「この絵は『濁世終末絵図』といって、千年近くも前にこの寺の住職が描いたものだ」
 その声が先生の口から発せられたことに、栄田くんは二秒のタイムラグを経て気がついた。
 先生の青みがかった黄金色の絵を一心に見つめている。義務ではなく、義理でもなく、能動的に熟視している。

「百鬼院、という雅号を用いていた僧侶だそうだ。詩歌なども嗜んだ才人だったそうだが、謎も多くてね。『濁世終末絵図』は別人が書いたのではないか、そもそも百鬼院なる人物は実在しないのではないか、とも言われているんだ。しかし、少なくとも、この絵が千年前に描かれたのは事実。科学的にも証明されているらしい」
 口を動かしている間も、先生の真剣な表情は揺るがない。先生は四捨五入すれば三十になる年齢だが、現在の横顔だけ見れば、大志を抱いた十代の青年のようだ。

「この絵は日ごろ、本堂の奥の奥に厳重に保管されているのだが、月に一回、こうして一般公開されていてね。この絵を眺めていると、寺がこの作品を容易に人目に晒さない措置を取っているのも、頷けるとは思わないか」
 問いかけるような口振りだが、それでいて、ひとり言の気配を色濃く孕んでもいる。返事をするべきか、流すべきか。結論を下すよりも早く語が継がれる。

「百鬼院は己の画才を試すべく、全身全霊をかけて一つの作品を形にしたい欲求のもとに、この大作を描いたと言われている。仏僧や仏教徒、さらには当時この国を牛耳っていた貴族に対する、抗議や非難の意図を込めて描かれたわけではない、と結論している専門家が多いそうだよ。文献に残る彼の言行を見た限り、その線が濃厚なのではないかとね。真相は今となっては闇の中だが、私としてはその説を全面的に支持したいかな。百鬼院関連の資料を読んだ限り、その説が正しいと思えたし、私自身、文学や芸術に携わる者はそうあるべきだと考えている」

 先生が自らの文学観、あるいは芸術観について語った機会は、これまでに何度もある。しかし、絵画についてはこれが初めてのはずだ。
 憧れの人の未知なる領域に肉薄する実感に、栄田くんの全身の皮膚はひりつく。冷温のベクトルは正反対だが、鳥肌が立つのにも似た感覚だ。

「その説が正しいのだとすれば、極論、絵は焼き捨ててしまって構わないことになる。しかし、優れた作品を多くの人間に見せたいのは、凡人の悲しき性なのだろうね。不定期に一般向けに公開されるようになり、それがいつしか月に一度と定められ、私たちがこうして眺めている」
 発言が途切れた。次なる言葉を探しているらしい顔つきだが、絵図を鑑賞する意思を放擲するつもりはないらしい。

 白い着物の女性に馬乗りになって牙を剥き出しにした、双頭の人狼。
 槍で串刺しにした赤子を天高く掲げて行進する、翼竜の翼を生やした悪魔の一群。
 取っ組み合いの喧嘩をする、髪の毛が燃えている男と半纏を着た猫又。
 そのどれを、先生の瞳は捉えているのだろう。
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