なぜならこの世界は

阿波野治

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 京山家の玄関扉を開くと、事務机の前で先生が仁王立ちをしていた。
 栄田くんは息を呑んで立ち竦む。何食わぬ顔をして買い物の報告ができるだろうかと、案じながら扉を開くと先生がいたので、心の中を読まれて待ち構えられていたような、そんな錯覚に襲われた。
 栄田くんの膝の高さの床の上で、足を肩幅に開いて佇み、一直線に見下ろす先生の顔は険しい。唇を真一文字に結び、細い眉を吊り上げて憤怒を表現している。
 こんな顔、これまで、栄田くんに対しては見せたことがない。

「お前の帰りが遅いせいで、私のもとにcholeraが来た」
 先生がおもむろに告げた。今にも爆発しそうな感情を懸命に抑えつけているようなしゃべり方だ。腰の横で拳が震えている。
 先生の怒りを観測した瞬間より心身を支配していた緊張が、一気に跳ね上がって天井を突き抜けた。
 choleraの侵入が、先生を中心とする世界になにをもたらしたのか。それを知りたくて、敬愛する人の顔を、恐怖を感じながらも改めて凝視したが、激しい怒りの感情が読み取れるだけだ。周囲に観察の目を走らせたかったが、先生の双眸から射出された視線の圧力がそれを許さない。

「分からないか。私はcholeraに感染したのだ。お前の帰りが遅かったせいで。お前が職務を怠慢したせいで。一見そうとは分からないかもしれないが、すでにcholeraに感染していて、手遅れなのだ。……おしまいだ。人生も、作家としても、なにもかも全て」
 どう答えればいいか分からない。触れた瞬間、致死量の熱で報復されそうな気がしたからでもあるが、それだけではない。「感染」という一言を聞いた瞬間、理解できたと思ったcholeraの正体が、先生のひとり言のような語りに耳を傾けているうちに、再び分からなくなってきたのだ。

 先生はおもむろに腰を屈めた。その足元には、見覚えのある風呂敷包みが無造作に置かれている。
 先生は風呂敷包みを掴み上げ、力任せに書生へと投げつける。受け止めた体は一歩二歩と後退する。栄田くんが京山家に持参した唯一の荷物である、抹茶色の風呂敷包み。重さから判断するに、栄田くんの持ち物の全てが収まっているらしい。
 恐ろしい予感に、栄田くんは弾かれたように顔を上げる。先生は書生に鋭利な眼差しを送りつけながら告げる。

「出て行け。お前は玄関番失格だ。一刻も早く、この家から去れ」
 悪寒とは似て非なる電流が背筋を駆け上がり、体が震えた。さながら走馬灯のごとく、京山家で積み重ねてきた思い出が脳内を駆け巡る。
 出て行く。この僕が。
 玄関番失格。この僕が。
 腹の底から込み上げてくる激情がある。抑えきれず、体が一瞬波打った。頭頂から爪先まで空白の余地なく熱い。

 京山家から出て行く?
 ――嫌だ。
 玄関番として失格?
 ――嫌だ。
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