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幼稚園
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幼稚園で過ごす間、慎也は一言も喋らなかった。彼にとって、家族以外の他者の面前で声を発するのは、恐ろしく、恥ずかしいことだからだ。
恐ろしいことであり、恥ずかしいことではあったが、他者と関わりたいという意欲は持っていた。誰かに話しかけられれば、言葉を発する代わりに身振り手振りでなんらかの反応を示したし、遊びに誘われれば喜んで応じた。気を許せる相手のもとへ自ら赴き、一緒に遊びたいという意思を声以外の手段で伝えることも、稀にではあるがあった。
しかし、幼稚園年少組の初夏に起きた出来事をきっかけに、慎也は他者と積極的に関わる意欲を持てなくなってしまう。
初夏の午前十一時、園児たちは園に隣接する空き地での虫捕りを終え、帰園したばかりだった。慎也は渇いた喉を潤すべく、プラスチック製の水筒のコップに冷たい緑茶をなみなみと注いだ。一口飲んだところで、一人の男子園児が床に腹ばいになり、虫篭を覗き込んでいる姿が目に留まった。虫篭には一匹のバッタが囚われ、気怠そうに繰り返し跳ねている。慎也の目には、そのバッタが並外れて大きな個体に見えた。慎也はその男子園児とは比較的親しかった。一口飲んだだけでコップを床に置き、男子園児のもとへ向かう。バッタを鑑賞するべく、男子園児と同じ姿勢を取った直後、後方で声がした。
「誰なの? こんなところにお茶が入ったコップを置きっぱなしにしたのは」
振り向いた慎也は、三十歳前後、眉を吊り上げた女性が、自らが置いたコップの傍らに佇んでいるのを認めた。彼が所属する組の担任教師だ。彼女は園児を叱る際、声と顔に露骨に怒りを表すため、園児たちから恐れられていた。
慎也は狼狽した。名乗り出るか、知らないふりをするか。思案を巡らせて、恐るべき事実に気がついた。自首するしないにかかわらず、担任教師は悪さをした園児を必ず叱る。コップには慎也の名前が明記されている。従って、どちらの行動を選択したとしても、担任教師から叱られる運命からは逃れられない。
「誰のコップなの? 今すぐに名乗り出なさい!」
担任教師の声が再び教室に響いた。
その後、事態がどのように推移したのかを、慎也は記憶に留めていない。
僕の人生の方向性を決定づけたのは、この出来事に他ならない。慎也は心からそう信じている。
恐ろしいことであり、恥ずかしいことではあったが、他者と関わりたいという意欲は持っていた。誰かに話しかけられれば、言葉を発する代わりに身振り手振りでなんらかの反応を示したし、遊びに誘われれば喜んで応じた。気を許せる相手のもとへ自ら赴き、一緒に遊びたいという意思を声以外の手段で伝えることも、稀にではあるがあった。
しかし、幼稚園年少組の初夏に起きた出来事をきっかけに、慎也は他者と積極的に関わる意欲を持てなくなってしまう。
初夏の午前十一時、園児たちは園に隣接する空き地での虫捕りを終え、帰園したばかりだった。慎也は渇いた喉を潤すべく、プラスチック製の水筒のコップに冷たい緑茶をなみなみと注いだ。一口飲んだところで、一人の男子園児が床に腹ばいになり、虫篭を覗き込んでいる姿が目に留まった。虫篭には一匹のバッタが囚われ、気怠そうに繰り返し跳ねている。慎也の目には、そのバッタが並外れて大きな個体に見えた。慎也はその男子園児とは比較的親しかった。一口飲んだだけでコップを床に置き、男子園児のもとへ向かう。バッタを鑑賞するべく、男子園児と同じ姿勢を取った直後、後方で声がした。
「誰なの? こんなところにお茶が入ったコップを置きっぱなしにしたのは」
振り向いた慎也は、三十歳前後、眉を吊り上げた女性が、自らが置いたコップの傍らに佇んでいるのを認めた。彼が所属する組の担任教師だ。彼女は園児を叱る際、声と顔に露骨に怒りを表すため、園児たちから恐れられていた。
慎也は狼狽した。名乗り出るか、知らないふりをするか。思案を巡らせて、恐るべき事実に気がついた。自首するしないにかかわらず、担任教師は悪さをした園児を必ず叱る。コップには慎也の名前が明記されている。従って、どちらの行動を選択したとしても、担任教師から叱られる運命からは逃れられない。
「誰のコップなの? 今すぐに名乗り出なさい!」
担任教師の声が再び教室に響いた。
その後、事態がどのように推移したのかを、慎也は記憶に留めていない。
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