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「君は私を殺すよ」
淡い柑橘系の芳香にのって、その声は僕の耳まで届いた。蝉時雨が遠のいた。
半自動的に足を止めていた。一拍を置いて、僕のものではない靴音が途絶えた。声の主も歩くのをやめたのだ。
思い出したように、皮膚のいたるところから汗が滲み出てくる。
嫌な予感がひしひしとする。存在感が希薄という特質のおかげで、かろうじて虐めに遭う事態を回避している僕に、下校途中にわざわざ話しかけてくるだなんて。
本音を言えば、無視して歩き去りたかった。しかし、足を止めてしまった以上は振り向かざるを得ない。覚悟を決め、反時計回りに首を回した。
少女が佇んでいた。
耳が丸ごと出るくらい短い黒髪。眉が吊り上がっているわけでも、目が切れ長なわけでもないのに、冷たくて意思が強そうな顔。着用しているのは、僕が通う高校の冬服。
転校生だ。七月に入ってすぐという中途半端な時期に、僕のクラスに転校してきた女子生徒。今の時季に冬服なのは、急な転校で夏服が用意できていないからだ、と担任教師が説明していた。名前は確か、
「九条翡翠」
おもむろに声が放たれ、僕の耳に到達した。一切の感情を孕んでいない、今にも消え入りそうに儚い声。
「憲法九条の九条に、宝石の翡翠。そう書いて、九条翡翠と読むんだけど」
「……なんで分かったの」
「意味が分からない。説明して」
「それはこっちのセリフだよ。どうして僕が考えていることが分かったの? 君の名前を思い出そうとしているって」
「だいたい分かる。みんな、私のことはテンコーセーとしか言わなくて、どうせ本名は知らないんだろうなって。君もそうなんでしょう? 遠藤裕也くん」
驚きと困惑が胸中で渦巻いている。無理もない。なぜならば、転校生――九条翡翠が、教師以外の学校関係の人間と口をきいたのは、僕が記憶する限りこれが初めてなのだから。
「遠藤くん、君が今、なにを思っているのかを当ててあげようか。――学校ではクラスメイトとは一言も話さないくせに、わざわざ下校途中に僕に話しかけたりして、なにを企んでいるんだ? だいたいそんなところでしょう」
「……君は、なにか特殊な能力の持ち主なの? さっきも僕の発言を先読みするようなことを言ったよね」
「私は予知能力を持っているの。端的に言えば、未来が見える」
「予知能力?」
「そう。言葉通りの意味」
「未来というよりも、僕の心の中を読んだような気がするんだけど」
「この人は何秒後の未来にこう言うな、ということが分かるの。だから、結果的に読心術を使ったように感じられる、というわけ」
説明している間、九条さんは一貫して無表情だ。だからだろう、怖いくらいに落ち着いているように見える。
教室の中でもそうだ。みんなとはしゃべろうとしないから、孤立しているから、クラスメイトの大多数から奇異な目で見られている。九条さんの個性を快く思っていない人間ですら顔をしかめるような、聞くに堪えない暴言を吐く人間も中にはいる。それなのに彼女は、憂鬱さや苦痛は一度たりとも表にしたことがない。
「じゃあ、さっきの『君は私を殺すよ』というセリフ、あれも予知能力の賜なんだね」
「ええ。ただし、未来は当たり前のように変わるから、絶対に当たるわけじゃない。つまり、遠藤くんは私を殺さないかもしれない。はっきりとした映像が脳裏に浮かぶわけではなくて、あくまでも『そうなる気がする』だけだから」
「当たるかどうかは分からないって……。なんていうか、ある意味、百発百中よりもたちが悪いね。凄く嫌な感じがするよ」
「とても常識的な言葉を返すんだね、遠藤くんは」
「まあね」
君とは違ってね、という皮肉めいた一言は胸に仕舞っておく。たった今気づいたことだが、僕は九条さんを変人だと認識しているが、嫌悪しているわけでも、疎ましいと感じているわけでもない。
淡い柑橘系の芳香にのって、その声は僕の耳まで届いた。蝉時雨が遠のいた。
半自動的に足を止めていた。一拍を置いて、僕のものではない靴音が途絶えた。声の主も歩くのをやめたのだ。
思い出したように、皮膚のいたるところから汗が滲み出てくる。
嫌な予感がひしひしとする。存在感が希薄という特質のおかげで、かろうじて虐めに遭う事態を回避している僕に、下校途中にわざわざ話しかけてくるだなんて。
本音を言えば、無視して歩き去りたかった。しかし、足を止めてしまった以上は振り向かざるを得ない。覚悟を決め、反時計回りに首を回した。
少女が佇んでいた。
耳が丸ごと出るくらい短い黒髪。眉が吊り上がっているわけでも、目が切れ長なわけでもないのに、冷たくて意思が強そうな顔。着用しているのは、僕が通う高校の冬服。
転校生だ。七月に入ってすぐという中途半端な時期に、僕のクラスに転校してきた女子生徒。今の時季に冬服なのは、急な転校で夏服が用意できていないからだ、と担任教師が説明していた。名前は確か、
「九条翡翠」
おもむろに声が放たれ、僕の耳に到達した。一切の感情を孕んでいない、今にも消え入りそうに儚い声。
「憲法九条の九条に、宝石の翡翠。そう書いて、九条翡翠と読むんだけど」
「……なんで分かったの」
「意味が分からない。説明して」
「それはこっちのセリフだよ。どうして僕が考えていることが分かったの? 君の名前を思い出そうとしているって」
「だいたい分かる。みんな、私のことはテンコーセーとしか言わなくて、どうせ本名は知らないんだろうなって。君もそうなんでしょう? 遠藤裕也くん」
驚きと困惑が胸中で渦巻いている。無理もない。なぜならば、転校生――九条翡翠が、教師以外の学校関係の人間と口をきいたのは、僕が記憶する限りこれが初めてなのだから。
「遠藤くん、君が今、なにを思っているのかを当ててあげようか。――学校ではクラスメイトとは一言も話さないくせに、わざわざ下校途中に僕に話しかけたりして、なにを企んでいるんだ? だいたいそんなところでしょう」
「……君は、なにか特殊な能力の持ち主なの? さっきも僕の発言を先読みするようなことを言ったよね」
「私は予知能力を持っているの。端的に言えば、未来が見える」
「予知能力?」
「そう。言葉通りの意味」
「未来というよりも、僕の心の中を読んだような気がするんだけど」
「この人は何秒後の未来にこう言うな、ということが分かるの。だから、結果的に読心術を使ったように感じられる、というわけ」
説明している間、九条さんは一貫して無表情だ。だからだろう、怖いくらいに落ち着いているように見える。
教室の中でもそうだ。みんなとはしゃべろうとしないから、孤立しているから、クラスメイトの大多数から奇異な目で見られている。九条さんの個性を快く思っていない人間ですら顔をしかめるような、聞くに堪えない暴言を吐く人間も中にはいる。それなのに彼女は、憂鬱さや苦痛は一度たりとも表にしたことがない。
「じゃあ、さっきの『君は私を殺すよ』というセリフ、あれも予知能力の賜なんだね」
「ええ。ただし、未来は当たり前のように変わるから、絶対に当たるわけじゃない。つまり、遠藤くんは私を殺さないかもしれない。はっきりとした映像が脳裏に浮かぶわけではなくて、あくまでも『そうなる気がする』だけだから」
「当たるかどうかは分からないって……。なんていうか、ある意味、百発百中よりもたちが悪いね。凄く嫌な感じがするよ」
「とても常識的な言葉を返すんだね、遠藤くんは」
「まあね」
君とは違ってね、という皮肉めいた一言は胸に仕舞っておく。たった今気づいたことだが、僕は九条さんを変人だと認識しているが、嫌悪しているわけでも、疎ましいと感じているわけでもない。
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