僕は君を殺さない

阿波野治

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「九条さんの予知能力は、随分と不確かなもののようだけど、なんで予知の結果を僕に告げたの? いつもとは違って、今回は絶対に的中する自信があるとか?」
「別に、そういうわけではないけど」

 じゃあ、どうして? 眼差しで問うたが、答えは返ってこない。顔を僕に向けたまま、薄い唇を柔らかくも強固に閉ざしている。表情というものが顔に表れていないせいで、心の中が全く読めない。
 長く、長く、沈黙は続く。

 格別寂しい道ではないのに、通行する人間も車両もない。蝉の合唱は遠くに行ったままなので、九条さんと二人、知らず知らずのうちに別世界に迷い込んでしまったかのようだ。比喩的な意味ではなく、物理的な意味での別世界に。七月半ばの午後の直射日光に射抜かれて、笑ってしまうくらい大量の汗が垂れ落ちているが、現在の僕はその事実を、一匹の蟻の生き死のように些末なことだと認識している。

「遠藤くん、それはね」
 唇の動きが、なぜかとてもスローに見える。

「秘密だよ。私の中だけの、秘密」
 九条さんは僕から視線を切り、歩き出した。

 呼び止めようとは思わなかった。二人だけの時間をそろそろ終わらせたい。それが九条翡翠の現在の意思だと、背中からひしひしと伝わってきたから。
 道を十メートルあまり直進して、後ろ姿は曲がり角に消えた。

『君は私を殺すよ』

 蝉の大合唱が現実世界に復帰し、肌が汗ばんでいるのを自覚した。それらの現象が遠のいたのは、九条さんのその一言が引き金だったと思い出す。
 夢幻のような時間ではあったが、会話の内容は全て脳に克明に記録されている。特にその一言は、忘れたくても忘れられそうにない。
 胸の内側で何度でも反芻する。君は私を殺すよ、君は私を殺すよ、君は私を――。

 自己申告によると、九条さんは予知能力が使えるらしい。ただ、本人の解説を聞いた限り、力は極めて曖昧で不確実なもののようだ。
 それにもかかわらず、僕に面と向かって予知の内容を告げた。
 客観的に考えれば、少なくとも今日明日中に現実になる類の予知だとは思えない。僕は人に暴力を振るった経験はないし、振るいたい願望を持ってもいない。そしてなにより、九条さんにはなんの恨みも抱いていない。

「……とはいえ」
 あの一言は心に残る。一生消えないのではと、という気さえする。祝福のようなものなのか、それとも呪いなのか――僕は歩き出した。

 スーパーマーケットの袋を提げた中年女性が、僕と擦れ違って横断歩道を渡る。自転車に乗った二人組の男子中学生が、僕を追い抜いて道を遠ざかっていく。鈴つきの首輪をつけた黒猫が、僕の前を横切って路地裏へと消える。
 世界はもはや完全に日常に回帰している。俗っぽい、味気ない、取るに足らない日常へと。
 しかし、いつものような憂鬱さとは無縁だ。祝福なのか、それとも呪いなのか。そんなことは気にも留めない僕が、歩き慣れた通学路を、急がない足取りで我が家へと向かっている。

 蝉がやかましく鳴いている。でも、うるさくない。汗が首筋を伝う。でも、鬱陶しくない。
 幼いころ、夏休みの幕開けが待ち遠しかった時代にそうだったように、浮かれる心がさらなる歓喜を欲していた。
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