僕は君を殺さない

阿波野治

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 ままあることだが、本日の仕事を終えた両親は、ほぼ同時に自宅に帰り着いた。
 互いの全身が屋内に入り、玄関ドアが閉まるや否や、二人は諍いを始めた。経緯はこうだ。
 日常生活に関する些細な問題について、一方が一方に確認をとった。確認を求められた方は、故意か無意識か、不機嫌そうに喧嘩腰に言葉を返した。その態度が癪に障ったらしく、確認を求めた方は語気を鋭くして相手を非難した。喧嘩腰で応じた方も負けじと言い返し、汚い言葉のぶつけ合いが始まった。

 二階にいた僕は、声の調子から二人が揉めていると悟っただけで、話の詳細まで把握したわけではない。しかし、どうせくだらないことで揉めたのだろうと、確認をとるまでもなく断言できる。

 何回愚かな真似をすれば無恥から卒業するんだ、あの人たちは。確認をとる方も、答える方も、穏便な言い回しと抑制的な物言いを選べばいいだけなのに。
 夕方から夜にかけての遠藤家の恒例行事とはいえ、情けなくて、やるせなくて、死にたくなる。

 息子が毎日のように惨めな思いを強いられていることに、両親は気づいているのだろうか?
 答えがイエスでもノーでも、僕の気持ちを無視している事実に変わりはないから、罪深いことに変わりない。それとも、夫婦喧嘩をやめてと申し出ない僕にこそ非があると、逆に僕を非難するだろうか? 有り得そうな話だ。学校から帰ったばかり、ランドセルを背負ったままの姿で、「お願いだからもう喧嘩はしないで」と懇願した昔日のことなど、二人はとうの昔に忘却しているに違いない。

 一方が声を荒らげてから十分以上が経過しても、言い争いは依然として続いている。玄関ドアを閉ざした意味を台無しにするような大声で、代わり映えのしないやりとりを延々とくり返している。エゴ剥き出しの醜い中年の男女。苦手だった算数の宿題をいつも手伝ってくれた、聡明で頼りがいのある父。授業参観の日には誇らしい気持ちにさせてくれた、若々しい容貌の母。あのころの両親は、もはやこの世界からは永遠に消滅してしまった。

 不愉快な気持ちになるだけだと予測できていたのに、聞き耳を立てる僕も僕だ。つまらない言い争いの詳細を把握して、いったいなにが得られるのだろう。夫婦の絆が完全には断ち切られていない証拠? 僕に対する愛情の残滓?

「……馬鹿馬鹿しい」

 呟きと共に溜息を吐き、有線イヤホンで耳に栓をして音楽をかける。ハスキーボイスのアメリカ人の青年が、大人たちの無理解を標的に、おぞましい呪詛を高速で捲くし立てる。洋楽邦楽問わず、明るい曲調のポジティブな歌詞の楽曲が聞くに堪えなくなったのは、いつからだろう。

 半時間近くが過去に流れ、階下の言い争いは漸く終息した。
 ただし、平和が続くのも束の間。夕食時間が訪れれば、二人は高い確率で再び一悶着を起こす。そして、就寝前、深夜零時過ぎのもう一騒動。今夜は一時までに終わるだろうか? それとも二時が過ぎても続く? 考えるだけでうんざりする。死にたくなる。

 しかし今日は、底なしの穴に墜落し続ける感覚にも似た、虚無的な絶望感は襲ってこない。
 光が射している。眩いばかりの一筋の光が、僕と目の鼻の先に降り注いでいる。実体はないから、手を伸ばしても掴めずにすり抜ける。それでも、そこに在るだけでよかった。視認できる、ただそれだけで。
 惨めで、情けなくて、死にたくなる気持ちに陥ることを、未然に防いでくれるほどのパワーはない。ただ、一目見れば、存在を確かめさえすれば、種々のネガティブな感情はたちどころに浄化される。

 光の名は、九条翡翠。

 明日の朝、登校して教室に入れば、九条さんがいる。僕を待っているわけではないが、その姿をお目にかかれる。その事実は、今日、下校途中に起きた出来事を境に、全く違う意味を持つようになった。強大で崇高な、価値のある意味を。

『君は私を殺すよ』

 今の僕には少しうるさすぎる音楽を消し、その一言の意味について改めて考える。
 あらゆる角度から何度となく眺めても、真意は雲を掴むようだ。どう足掻いても掴むことなどできない、という諦めが、早くも胸に色濃く漂っている。
 しかし、意味が分からないことのなにが問題だというのだろう?

 時計の針が速く進んでほしかった。両親が一秒でも早く眠りに就いてほしいという意味で。それ以上に、九条さんの顔を一刻も早く見たいという意味で。

 彼女と過ごしている間は、嫌なことの全てを意識せずにいられた。鬱陶しい蝉の声は遠のき、うんざりするような暑さは感じなくなり、通行人でさえ僕の視界に映り込むのを遠慮した。
 ここではない別世界。
 それこそが、僕が求めているものなのかもしれない。


* * *


「宝石 翡翠」で検索をかけてみる。
 画面に表示された宝石の形状は様々だが、色は脳内でイメージしていたものと寸分違わない。
 そして、美しさも。

 僕はビー玉サイズの翡翠の宝石を脳内に思い描く。右手で軽く握るようにそれを包み込み、戯れるように静かに弄ぶ。
 やがて、下腹部に独特の熱が生じ、熱量というよりも濃度を増していく。

 想像の中の僕は、掌から口腔へと翡翠を移し、飽くことなく舌でねぶった。
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