僕は君を殺さない

阿波野治

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「九条さん、冬服だから暑いでしょ」

 井内さんは今日も、休み時間になるたびに九条さんに話しかける。九条さんの机の前にしゃがみ、天板の縁に両手を添えて、話し相手の顔を斜め下から見つめながら。

「今日は最高気温が三十三度になるらしいから、熱中症には気をつけてね。室内でエアコンをかけていても、なる人はなるみたいだから」

 九条さんは今日も頬杖をつき、井内さんから顔を背けている。その漆黒の瞳の先には、摂氏三十三度に達するポテンシャルを秘めた七月の世界が広がっている。

 熱心に話しかける井内さんと、徹底的に無視する九条さん。そのギャップが醸し出す歪な空気に、誰もが無駄口を控えて、人によっては息を呑んで、二人の会話の行方に耳を傾けたものだ。空気という特性を考慮しても平凡の範疇に属する僕も、その例に漏れない。
 ただ、それは転校してきた当初の話。いかに異様でも、いかなる異様でも、場数を踏めば適応する。今となっては誰もが、その光景を当たり前のものとして看過している。井内さんの賛同者となって九条さんに話しかける生徒も、固唾を呑んで成り行きを見守る生徒も、絶滅してしまった。

 しかし、正常と異常を兼ね備えた僕は違う。一貫して関心を持ち続けているのではなく、復活した。昨日の下校途中での遭遇が、会話が、永遠に忘れられそうにない一言が、九条さんに対する興味関心を呼び覚ましたのだ。

「こういうときはね、こまめに水分をとるといいよ。九条さんって、昼食のとき以外はなにも飲んでいないよね? いつ見ても机にじっと座っているから、心配になるよ」

 話に聞き耳を立てている限り、井内さんは九条さんのことをクラスで一番知っている。九条さんに対する関心の度合いは僕が勝っていると思うが、深く興味を持ったのは昨日の下校時のこと。井内さんは模範的で精力的な学級委員長として、入学当初から九条さんのことを気にかけているから、関心を注いでいる総時間は僕よりも圧倒的に上だ。

 胸の底で嫉妬の炎がちらついている。
 もっと九条さんのことを知りたい。空気の僕に話しかけてくれて、しゃべってくれた、予知能力を持つと自称する少女のことを。

「持参している飲み物がなくなったら、自販機で買うといいよ。体育館に行く途中にあるから、場所は九条さんも分かるよね? お金、持ってきてる? ないんだったら貸すから、気軽にわたしに――」
「井内、まだやってんの?」

 戸口から女子の大声が聞こえた。井内さんを名字で呼び捨てにして、人目を憚らず大きな声でしゃべる。二つの条件を満たす生徒は、僕たちのクラスには一人しかいない。高木夏希だ。

「九条なんて放っておけばいいのに。そんなにいい子アピールして、あんたになんの得があるわけ?」
「そんなのじゃないよ。ただ、九条さんと話がしたいから」

 井内さんは微かに苦笑している。高木さんの言動は総じて攻撃的で、井内さんは何事も穏便に済ませようとする意識が強い。対極に位置しているようにも思える二人だが、高木さんは井内さんによく話しかけるし、井内さんの高木さんの扱いはそつがない。一見水と油に見えて、その実、凹凸がぴったりと重なるから不思議と噛み合う。そんな関係だろうか。

「本当はしゃべれるくせに人を無視する九条もおかしいけど、めげないあんたも相当変人だよね。まあ、時間を無駄にしたいなら好きにしろって感じ」

 高木さんは栗色の長髪を指先で触りながら、友人の机まで行って談笑を始めた。転校してきた当初は九条さんに絡むことも多かったが、今となっては、時たま遠回しに非難の言葉を吐く程度に落ち着いている。
 高木さんの横槍に気を削がれたらしく、井内さんはきりがいいところで話を切り上げ、自席に戻った。

 高木さんは井内さんを変人だと称していたが、僕もそうなりたいと思う。
 九条さんと昼食を共にすることに対する心の高ぶりは、いい意味で皆無だった。


* * *


 授業中、黒板に記された要点をノートに書き写す淡々とした手つき。休み時間、窓外の景色を眺めるどこか物憂げな無表情。井内さんに話しかけられている最中の、柔らかくも厳重に閉ざされた唇。
 九条さんにまつわる全てが昨日までと同じなのに、いつもとは違って見える。僕に見られているのを意識して振る舞っているような、そんな気がしてならない。

 もちろん、僕の身勝手な思い込みに過ぎないと理解している。話しかけられ、言葉を交わし、再び会話する約束を交わしたとはいえ、僕の基本的な性質は空気。彼女の心を支配するほどの影響力を行使できたとは思えない。
 ただ、僕の顔が、言葉が、存在が、胸を過ぎった瞬間が、全くないわけではないはずだ。

 遠藤裕也という一個人が有する存在感が、他人になにかしらの影響を与えている。
 その認識は、僕を静かに高ぶらせる。

 自らの胸にそっと手を宛がう。九条さんのことをもっと知りたいという欲求が持続しているのが、ただ続いているだけではなく徐々に膨らんでいるのが、掌を介して伝わってくる。
 いつもとは正反対の意味で、時間の流れを遅く感じている僕がいた。
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