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ホームを走るマナー違反を犯してしまったが、予定よりも一本早い電車になんとか乗ることができた。
吊革に掴まっている乗客が二・三人いるという情勢だったが、運よく乗車口近くに二人分の空席が生まれたので、そこに座る。椅子取りゲームのような素早さを見せた僕とは対照的に、九条さんは他に座るべき人がいないか、通路の左右に静かに目を走らせてから、しとやかに腰を下ろした。根本的な気質の違いを感じると共に、屋上で日陰に腰を下ろしたさいの上品な挙動を思い出した。
感情を表に出さず、あまりしゃべらない、という異常の陰に隠れているが、基本的には礼儀正しい人だ。冷笑的なことを口にすることもたまにあるが、口調自体はていねいだし、荒っぽい真似をしたことは今までに一度もない。
「詰めて」
着座してすぐ、九条さんから言葉をかけられた。彼女から見て、僕の側ではない隣に中途半端な空きがあり、何人かが少しずつ動けば一人分のスペースを作れそうだ。言われた通りにすると、九条さんは思いのほか大胆に体を寄せてきた。整髪料のかぐわしい香りが鼻孔をくすぐった。
細身の女性だったのでどうにか座れたが、成人一人が座るにはきついらしく、僕たちは少し窮屈な思いを強いられている。それでも、精神的な苦痛まで覚えずに済んだのは、大げさな言い方が許されるならば、苦労を共にしてくれる人が隣にいてくれるからなのだろう。
「メッセージでは、目的地には十一時に着くということだったけど、一本早いとどうなの」
「二十分早く着くよ。二十分って待つとなると長いから、乗れたのは大きいよね」
九条さんから話を振ってくる場合は、必要事項について確認を取ってくることが多かった。
「見て。窓の外。山の緑と空の青! 風景画みたいできれいじゃない?」
「そうだね」
僕からも話を振るようにしたが、九条さんの対応は総じて素っ気ない。
他の乗客の目に、僕たちの関係はどう映っているのだろう? 全く気にならないわけではないが、所詮はどうでもいいことだ。和気藹々とした談笑ではないかもしれないが、ストレスなくコミュニケーションがとれているのだから。
むしろ僕が気になっているのは、他人ではなく九条さんのこと。
「九条さん。駅にいたときから気になっているんだけど」
呼びかけに反応して、中吊り広告を眺めていた顔がこちらを向く。そのさい、彼女の顎が小さく動き、口内でなんらかの音が鳴った。瞬間、気になっていたものの正体が掴めた。
「やっと分かった。キャンディだね。九条さんはキャンディを食べているんだ。しゃべるたびに甘い匂いが仄かに漂ってくるから、なんだろうなと思っていたんだけど」
九条さんは無言で頷いて指摘を認めた。
「甘い匂い、九条さんと初めて話をした日にも感じたんだよね。あのときも舐めていたんだ?」
「正解。学校にいるとき以外は、結構な割合で舐めているかな。欠かさずに、ではないけど」
「好きなんだね、キャンディ」
「別に。習慣になっているからやめられないだけ」
「タブレット菓子とか、キャンディとか……。九条さん、普段ちゃんとしたものを食べてるの? 心配になるよ」
「食事はきちんととっているから、ご心配なく。クイズだけど、匂いだけで何味か分かる?」
「味か。んー、なんだろう。イチゴとか?」
「残念」
九条さんはおもむろに大きく口を開け、舌を突き出した。唾液で淫靡に濡れたその器官の上に載っていたのは、半ば溶けて歪に変形した、黄緑色の球体。
「マスカット。メロン味じゃなくて」
宝石のような球体とともに舌が引っ込められ、唇が閉ざされる。九条さんの視線は中吊り広告に戻った。
一連の動作に、あるいは舌の様態に、僕はエロティックなものを感じてしまった。しばらくの間はしゃべり出せないほどだったが、感情が静まってからは、元の調子で、何事もなかったように話ができたと思う。
無感情で無口だからこそ、なのだろう。九条さんはなにをするにも前触れというものがなくて、突然の言動に驚かされることもある。
でも、この鼓動の高鳴りは、決して不愉快ではない。
九条さんと一緒にいられる時間の中で、何度こんな体験ができるのだろう。
静かに、それでいて強く、期待に胸を弾ませている僕がいた。
吊革に掴まっている乗客が二・三人いるという情勢だったが、運よく乗車口近くに二人分の空席が生まれたので、そこに座る。椅子取りゲームのような素早さを見せた僕とは対照的に、九条さんは他に座るべき人がいないか、通路の左右に静かに目を走らせてから、しとやかに腰を下ろした。根本的な気質の違いを感じると共に、屋上で日陰に腰を下ろしたさいの上品な挙動を思い出した。
感情を表に出さず、あまりしゃべらない、という異常の陰に隠れているが、基本的には礼儀正しい人だ。冷笑的なことを口にすることもたまにあるが、口調自体はていねいだし、荒っぽい真似をしたことは今までに一度もない。
「詰めて」
着座してすぐ、九条さんから言葉をかけられた。彼女から見て、僕の側ではない隣に中途半端な空きがあり、何人かが少しずつ動けば一人分のスペースを作れそうだ。言われた通りにすると、九条さんは思いのほか大胆に体を寄せてきた。整髪料のかぐわしい香りが鼻孔をくすぐった。
細身の女性だったのでどうにか座れたが、成人一人が座るにはきついらしく、僕たちは少し窮屈な思いを強いられている。それでも、精神的な苦痛まで覚えずに済んだのは、大げさな言い方が許されるならば、苦労を共にしてくれる人が隣にいてくれるからなのだろう。
「メッセージでは、目的地には十一時に着くということだったけど、一本早いとどうなの」
「二十分早く着くよ。二十分って待つとなると長いから、乗れたのは大きいよね」
九条さんから話を振ってくる場合は、必要事項について確認を取ってくることが多かった。
「見て。窓の外。山の緑と空の青! 風景画みたいできれいじゃない?」
「そうだね」
僕からも話を振るようにしたが、九条さんの対応は総じて素っ気ない。
他の乗客の目に、僕たちの関係はどう映っているのだろう? 全く気にならないわけではないが、所詮はどうでもいいことだ。和気藹々とした談笑ではないかもしれないが、ストレスなくコミュニケーションがとれているのだから。
むしろ僕が気になっているのは、他人ではなく九条さんのこと。
「九条さん。駅にいたときから気になっているんだけど」
呼びかけに反応して、中吊り広告を眺めていた顔がこちらを向く。そのさい、彼女の顎が小さく動き、口内でなんらかの音が鳴った。瞬間、気になっていたものの正体が掴めた。
「やっと分かった。キャンディだね。九条さんはキャンディを食べているんだ。しゃべるたびに甘い匂いが仄かに漂ってくるから、なんだろうなと思っていたんだけど」
九条さんは無言で頷いて指摘を認めた。
「甘い匂い、九条さんと初めて話をした日にも感じたんだよね。あのときも舐めていたんだ?」
「正解。学校にいるとき以外は、結構な割合で舐めているかな。欠かさずに、ではないけど」
「好きなんだね、キャンディ」
「別に。習慣になっているからやめられないだけ」
「タブレット菓子とか、キャンディとか……。九条さん、普段ちゃんとしたものを食べてるの? 心配になるよ」
「食事はきちんととっているから、ご心配なく。クイズだけど、匂いだけで何味か分かる?」
「味か。んー、なんだろう。イチゴとか?」
「残念」
九条さんはおもむろに大きく口を開け、舌を突き出した。唾液で淫靡に濡れたその器官の上に載っていたのは、半ば溶けて歪に変形した、黄緑色の球体。
「マスカット。メロン味じゃなくて」
宝石のような球体とともに舌が引っ込められ、唇が閉ざされる。九条さんの視線は中吊り広告に戻った。
一連の動作に、あるいは舌の様態に、僕はエロティックなものを感じてしまった。しばらくの間はしゃべり出せないほどだったが、感情が静まってからは、元の調子で、何事もなかったように話ができたと思う。
無感情で無口だからこそ、なのだろう。九条さんはなにをするにも前触れというものがなくて、突然の言動に驚かされることもある。
でも、この鼓動の高鳴りは、決して不愉快ではない。
九条さんと一緒にいられる時間の中で、何度こんな体験ができるのだろう。
静かに、それでいて強く、期待に胸を弾ませている僕がいた。
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