僕は君を殺さない

阿波野治

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 僕にとっての九条さんの意味を細胞レベルで理解したことで、僕たちの日常は高い水準で安定した。
 僕だけではなく、僕たち二人ともがそうなったのだから、九条さんの中でもなにかしらの心境の変化があったのだろう。具体的にどのタイミングでなのかは定かではないが、少なくとも、今朝僕を揺り起こした時点で変心を完了していたのは確かだ。なかなか眠りに就けず、取り留めもなく思案を巡らせる中で、彼女にとって重要ななにかに気づいたのかもしれない。

 山の奥深くへと散策に出かける。
 河原の大きな石の上に座って昼食を食べる。
 薄着になって水遊びをする。
 川音を聞きながら、他愛もない話をだらだらと続ける。
 全て、目覚めてから日没までにあった出来事だ。

 どの瞬間を切り取っても、僕の心模様は健康的な明るさに包まれていた。九条さんも、笑顔を見せてくれる機会こそ少なかったが、快い気分でいることが窺える表情自体は頻繁に見せていた。

 常に行動を共にしたことで、九条さんの様々な一面を知った。
 贅肉が全くついていない、均整のとれた体つきをしていること。一つの作業に情熱を燃やすまでには時間がかかるが、ひとたび集中するととてもていねいなこと。なにかを求めるときに投げかけてくる、媚びていないのにどこか蠱惑的な、上目づかいの眼差し。挙げようと思えばいくらでも挙げられるが、とてもではないが網羅しきれそうにない。


* * *


 そしてまた長い夜が訪れた。
 昨夜のように追っ手の影に怯えることはない。過去に交わしたものを適当にピックアップして切り取り、再放送したような、よくも悪くもくだらないことばかりを僕たちは話した。その事実は、僕たちの現在の精神状態を如実に反映していた。異性と二人きりで、狭い空間の中にいるというシチュエーションは当然意識したが、炎はさほど大きくは発展せず、生々しい空想が胸を占めることもない。まだ二日目だが、互いに随分と心にゆとりができたようだ。

「ねえ、遠藤くん。今、むらむらしてる?」
 話が途切れたタイミングで、九条さんが声をかけてきた。昨日も同じようなことを訊かれたな、と思いながら、

「いや、してないよ。昨日と比べると不安は薄らいだけど、今日はいろいろと活動したからね。疲れているせいで性欲を抱く余地もない、という感じかな。そう言う九条さんはどうなの」
「遠藤くんと全く同じ言葉を返しておこうかな」
「『いや、してないよ』?」
「そう。申し訳ないけど、遠藤くんは男性として、そう魅力的じゃないから」
「あはは、そっか。まあ、そうだよね。水遊びをしたときだって、九条さんはなんていうか、クールだったもんね。半裸の異性を見てテンションが上がったとか、そういう感じでは明らかになかった」

 川で水遊びをしたさい、水着を持参していない僕たちは、下着姿になった。九条さんは、体の傷を見せるのが嫌らしく、上はシャツで隠した。下は制服として丈が短いスカートを穿くということで、虐待の魔手は及んでいないらしい。僕自身は、傷だらけの肌をさらしてくれても一向に構わないが、優先させるべきは本人の意思。だから、あの対応がベストだったと納得している。
 下着姿がかわいかったとか、性的に興奮したとか、率直な感想を口にする勇気はまだない。ただ、いつかはそうなればいいと思うし、そうなるはずだと信じている。

 僕たちはきっと、今よりももっともっと仲を深められる。今日という一日で、僕はその手応えを抱いた。急いては事をし損ずる、という諺もある。急がず、焦らず、着実に距離を縮めていけばいい。

「じゃあ、いつかはしてみたいと思う?」
「そうだね。正直、その願望はあるかもしれない。でも、今は眠ろう。なにが起きるか分からない明日に備えて」

 ある意味逃げているだけなのかもしれない、とも思う。それでも、未来のことは考えたくなかった。今、紛れもなく感じている幸福、ただそれだけを味わいながら、深海のような眠りに墜落したい。

 僕は両の瞼を閉ざす。世界がますます暗くなり、もう眠るしかないな、という気分になる。
 僕の意思を尊重することにしてくれたらしく、寝返りを打って衣擦れの音を立てたのを最後に、九条さんは一切の音声を発信しなくなった。また一段と夜が深まった。
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