52 / 66
52
しおりを挟む
空にはまだ、日没の兆候はいささかも認められない。蝉たちの主張が普段にも増して強く、日が沈めば鳴きやむ事実が信じられない気持ちにもなる。そして、永久不変のように単調な川の川音。
「今日の井内さんの訪問、どう思う?」
戸を開け放した小屋の中、窮屈な戸口に並んで腰かけ、遠くに微かに見える川の流れを見ながら、僕は切り出した。井内さんの後ろ姿が見えなくなるのを見届けてから、もう十分は経っただろうか。二つの点を結ぶ距離を埋めた沈黙は、あまりにも長すぎた。
「気持ち悪いよね。率直に言って」
川から僕へと視線を転じての返答だ。
「井内さん、もともと過保護というか、お節介というか、そういう人ではあった。でも、不可解という表現は大げさにしても、イメージと行動との間にずれがある気がして」
「それは僕も思った。特殊な状況を目の当たりにしても、相手の心情を慮って好奇心を抑えつける人だと思うんだけど」
問題は、なにが原因でいつもとは少し違っていたのかということだが、残念ながら全く見当がつかない。沈黙しているということは、九条さんも同じらしい。
「放っておくしかないんじゃないかな。井内さん、もうここに来る意思はないみたいだし」
九条さんはおもむろに呟いた。知らず知らずのうちに俯いていた顔を彼女へと向けると、視線は再び川へと注がれている。
「……ああ。そういえば、今度会うのは夏休み明け、とか言っていたよね。わざわざ宣言した以上は、自分から反故にする人ではないだろうし」
「そうだね。人生でたまにある例外的な出来事だと見なして、忘れるしかない」
ある種の決意表明のような言葉を最後に、会話は途絶えた。図ったようなタイミングで蝉の大合唱がやんだので、聞こえるのは川音のみとなった。蝉の声よりもずっと涼やかな音色のはずなのに、鳥肌が立つように肌に汗が浮かび上がった。
* * *
死のように暗い夜が今日も僕たちを包んだ。
夜に鳴く夏の虫たちは本日も、飽きもせずに演奏に精を出している。なんという名前の虫が鳴いているのだろう? 生態は? 乏しい知識をかき集めて、その話題について九条さんと話した夜もあったが、機会も、費やす時間も、日を追うごとに減少していった。虫が鳴いている状況に慣れ、当たり前の日常となったからだ。
今宵の僕たちの会話は少ない。言うまでもなく、井内さんの一件の影響だ。横たわってからずっと、あれこれ考えている。内容は、僕たちにとって重要な問題から、誰にとっても些細な事柄まで、総じて取り留めがない。思案に集中できていないのだ。眠れないが、周囲は暗くてなにもできないから、仕方なしに考えごとをしている。下手に頭を使役するのが災いして、眠りの世界は徐々に遠ざかっている。それが現状だった。
僕はやがて、隣にいる九条さんを意識し始めた。話し相手や生活のパートナーとしてではなく、十代の瑞々しい肉体の所有者としての彼女を。
狭い空間の中で、体と体が触れ合いそうな近さで横になったり。下着姿で川遊びをしたり。そしてなにより、人気のない山の中で二人きりで暮らすというシチュエーション。性的な関心の対象として九条さんを意識しやすい環境なのは間違いない。意識せざるを得ない環境、という表現の方がより正確かもしれない。事実、この五日間でくり返し意識してきた。不可抗力的な生理的な現象も、当然伴った。
ただ、抑えがたいほど強く肉体への欲求が燃え上がったのは、初日の夜だけだった。
その性欲を、あの日ほど激しくはないが、僕は今確かに覚えている。体の芯から突き動かそうとするような激しさがない分、却ってあの日よりも強いような気もする。
あの日、九条さんは僕が行為を及ぼすことを許可すると明言した。それでは、今も方針は同じなのだろうか?
「今日の井内さんの訪問、どう思う?」
戸を開け放した小屋の中、窮屈な戸口に並んで腰かけ、遠くに微かに見える川の流れを見ながら、僕は切り出した。井内さんの後ろ姿が見えなくなるのを見届けてから、もう十分は経っただろうか。二つの点を結ぶ距離を埋めた沈黙は、あまりにも長すぎた。
「気持ち悪いよね。率直に言って」
川から僕へと視線を転じての返答だ。
「井内さん、もともと過保護というか、お節介というか、そういう人ではあった。でも、不可解という表現は大げさにしても、イメージと行動との間にずれがある気がして」
「それは僕も思った。特殊な状況を目の当たりにしても、相手の心情を慮って好奇心を抑えつける人だと思うんだけど」
問題は、なにが原因でいつもとは少し違っていたのかということだが、残念ながら全く見当がつかない。沈黙しているということは、九条さんも同じらしい。
「放っておくしかないんじゃないかな。井内さん、もうここに来る意思はないみたいだし」
九条さんはおもむろに呟いた。知らず知らずのうちに俯いていた顔を彼女へと向けると、視線は再び川へと注がれている。
「……ああ。そういえば、今度会うのは夏休み明け、とか言っていたよね。わざわざ宣言した以上は、自分から反故にする人ではないだろうし」
「そうだね。人生でたまにある例外的な出来事だと見なして、忘れるしかない」
ある種の決意表明のような言葉を最後に、会話は途絶えた。図ったようなタイミングで蝉の大合唱がやんだので、聞こえるのは川音のみとなった。蝉の声よりもずっと涼やかな音色のはずなのに、鳥肌が立つように肌に汗が浮かび上がった。
* * *
死のように暗い夜が今日も僕たちを包んだ。
夜に鳴く夏の虫たちは本日も、飽きもせずに演奏に精を出している。なんという名前の虫が鳴いているのだろう? 生態は? 乏しい知識をかき集めて、その話題について九条さんと話した夜もあったが、機会も、費やす時間も、日を追うごとに減少していった。虫が鳴いている状況に慣れ、当たり前の日常となったからだ。
今宵の僕たちの会話は少ない。言うまでもなく、井内さんの一件の影響だ。横たわってからずっと、あれこれ考えている。内容は、僕たちにとって重要な問題から、誰にとっても些細な事柄まで、総じて取り留めがない。思案に集中できていないのだ。眠れないが、周囲は暗くてなにもできないから、仕方なしに考えごとをしている。下手に頭を使役するのが災いして、眠りの世界は徐々に遠ざかっている。それが現状だった。
僕はやがて、隣にいる九条さんを意識し始めた。話し相手や生活のパートナーとしてではなく、十代の瑞々しい肉体の所有者としての彼女を。
狭い空間の中で、体と体が触れ合いそうな近さで横になったり。下着姿で川遊びをしたり。そしてなにより、人気のない山の中で二人きりで暮らすというシチュエーション。性的な関心の対象として九条さんを意識しやすい環境なのは間違いない。意識せざるを得ない環境、という表現の方がより正確かもしれない。事実、この五日間でくり返し意識してきた。不可抗力的な生理的な現象も、当然伴った。
ただ、抑えがたいほど強く肉体への欲求が燃え上がったのは、初日の夜だけだった。
その性欲を、あの日ほど激しくはないが、僕は今確かに覚えている。体の芯から突き動かそうとするような激しさがない分、却ってあの日よりも強いような気もする。
あの日、九条さんは僕が行為を及ぼすことを許可すると明言した。それでは、今も方針は同じなのだろうか?
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
結婚する事に決めたから
KONAN
恋愛
私は既婚者です。
新たな職場で出会った彼女と結婚する為に、私がその時どう考え、どう行動したのかを書き記していきます。
まずは、離婚してから行動を起こします。
主な登場人物
東條なお
似ている芸能人
○原隼人さん
32歳既婚。
中学、高校はテニス部
電気工事の資格と実務経験あり。
車、バイク、船の免許を持っている。
現在、新聞販売店所長代理。
趣味はイカ釣り。
竹田みさき
似ている芸能人
○野芽衣さん
32歳未婚、シングルマザー
医療事務
息子1人
親分(大島)
似ている芸能人
○田新太さん
70代
施設の送迎運転手
板金屋(大倉)
似ている芸能人
○藤大樹さん
23歳
介護助手
理学療法士になる為、勉強中
よっしー課長
似ている芸能人
○倉涼子さん
施設医療事務課長
登山が趣味
o谷事務長
○重豊さん
施設医療事務事務長
腰痛持ち
池さん
似ている芸能人
○田あき子さん
居宅部門管理者
看護師
下山さん(ともさん)
似ている芸能人
○地真央さん
医療事務
息子と娘はテニス選手
t助
似ている芸能人
○ツオくん(アニメ)
施設医療事務事務長
o谷事務長異動後の事務長
ゆういちろう
似ている芸能人
○鹿央士さん
弟の同級生
中学テニス部
高校陸上部
大学帰宅部
髪の赤い看護師
似ている芸能人
○田來未さん
准看護師
ヤンキー
怖い
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる