僕は君を殺さない

阿波野治

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 空にはまだ、日没の兆候はいささかも認められない。蝉たちの主張が普段にも増して強く、日が沈めば鳴きやむ事実が信じられない気持ちにもなる。そして、永久不変のように単調な川の川音。

「今日の井内さんの訪問、どう思う?」

 戸を開け放した小屋の中、窮屈な戸口に並んで腰かけ、遠くに微かに見える川の流れを見ながら、僕は切り出した。井内さんの後ろ姿が見えなくなるのを見届けてから、もう十分は経っただろうか。二つの点を結ぶ距離を埋めた沈黙は、あまりにも長すぎた。

「気持ち悪いよね。率直に言って」
 川から僕へと視線を転じての返答だ。

「井内さん、もともと過保護というか、お節介というか、そういう人ではあった。でも、不可解という表現は大げさにしても、イメージと行動との間にずれがある気がして」
「それは僕も思った。特殊な状況を目の当たりにしても、相手の心情を慮って好奇心を抑えつける人だと思うんだけど」

 問題は、なにが原因でいつもとは少し違っていたのかということだが、残念ながら全く見当がつかない。沈黙しているということは、九条さんも同じらしい。

「放っておくしかないんじゃないかな。井内さん、もうここに来る意思はないみたいだし」
 九条さんはおもむろに呟いた。知らず知らずのうちに俯いていた顔を彼女へと向けると、視線は再び川へと注がれている。

「……ああ。そういえば、今度会うのは夏休み明け、とか言っていたよね。わざわざ宣言した以上は、自分から反故にする人ではないだろうし」
「そうだね。人生でたまにある例外的な出来事だと見なして、忘れるしかない」

 ある種の決意表明のような言葉を最後に、会話は途絶えた。図ったようなタイミングで蝉の大合唱がやんだので、聞こえるのは川音のみとなった。蝉の声よりもずっと涼やかな音色のはずなのに、鳥肌が立つように肌に汗が浮かび上がった。


* * *


 死のように暗い夜が今日も僕たちを包んだ。
 夜に鳴く夏の虫たちは本日も、飽きもせずに演奏に精を出している。なんという名前の虫が鳴いているのだろう? 生態は? 乏しい知識をかき集めて、その話題について九条さんと話した夜もあったが、機会も、費やす時間も、日を追うごとに減少していった。虫が鳴いている状況に慣れ、当たり前の日常となったからだ。

 今宵の僕たちの会話は少ない。言うまでもなく、井内さんの一件の影響だ。横たわってからずっと、あれこれ考えている。内容は、僕たちにとって重要な問題から、誰にとっても些細な事柄まで、総じて取り留めがない。思案に集中できていないのだ。眠れないが、周囲は暗くてなにもできないから、仕方なしに考えごとをしている。下手に頭を使役するのが災いして、眠りの世界は徐々に遠ざかっている。それが現状だった。

 僕はやがて、隣にいる九条さんを意識し始めた。話し相手や生活のパートナーとしてではなく、十代の瑞々しい肉体の所有者としての彼女を。
 狭い空間の中で、体と体が触れ合いそうな近さで横になったり。下着姿で川遊びをしたり。そしてなにより、人気のない山の中で二人きりで暮らすというシチュエーション。性的な関心の対象として九条さんを意識しやすい環境なのは間違いない。意識せざるを得ない環境、という表現の方がより正確かもしれない。事実、この五日間でくり返し意識してきた。不可抗力的な生理的な現象も、当然伴った。
 ただ、抑えがたいほど強く肉体への欲求が燃え上がったのは、初日の夜だけだった。

 その性欲を、あの日ほど激しくはないが、僕は今確かに覚えている。体の芯から突き動かそうとするような激しさがない分、却ってあの日よりも強いような気もする。
 あの日、九条さんは僕が行為を及ぼすことを許可すると明言した。それでは、今も方針は同じなのだろうか?
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