61 / 66
61
しおりを挟む
九条さんの父親から手を離す。その隣、仰向けに横たわる人の傍らに屈み、
「九条さん、九条さん」
肩を弱く揺さぶる。触れた瞬間、生きている人間の柔らかさと温度が感じとれたので、声は微かながらも震えを帯びた。本当は力いっぱい揺さぶりたかった。フィクションの世界の取り乱した人のように振る舞いたかった。しかし、そうすれば九条さんを苦しめることになる。
恐る恐る、という形容が適当な力で揺さぶり、時折手を止めて顔を見つめる。そのくり返しの中で時は過ぎていき、
突然、九条さんの右手が一瞬痙攣した。思わず息を呑み、まず彼女の右手を、次いで顔を凝視する。額の傷は痛々しく、毒々しいが、出血は止まっている。視線を注がれたことに反応したかのように、かさついた唇が震えた。
瞼が開いた。深い眠りから目を覚ましたときのような、緩慢な開き方だ。三分の二ほど開いたところで瞼は止まり、瞬きを挟んで全開にされる。僕の姿を捉え、瞳が見開かれる。たちまち潤いに覆われた。その変化に、僕の目頭は急激に熱を帯びる。
「九条さん、大丈夫なの? 額の傷……。あんなにも打ちつけられて、今は止まっているけど、あんなにも血が出ていた」
「私は平気。頭が痛いけど、そう酷くないから。だから、平気」
声が微かに震えているものの、口調自体は思ったよりもしっかりしている。僕を心配させまいと、症状をいくらか過小に申告しているのだろう。ただし、しゃべるのに支障はないし、命に別状はない。
「よかった。ああ、よかった……」
その一言が、僕の現在の想いの全てだった。
「遠藤くんこそ無事なの? ……父親は?」
「殺したよ。ついさっき、僕が殺した。心臓が止まっていることも確認したから、確実に。ほら」
すぐ隣に横たわっている人体を、というよりも肉塊を指差す。九条さんはそれを数秒間、時が止まったかのように微動だにせずに見つめ、全てを理解した顔で深く頷いた。
「ごめんね。もしかしたら、別の道があったのかもしれないけど……。九条さんと九条さんの父親、両方が生きたままでも九条さんが幸せになる道があったのかもしれないけど、自分を抑えられなかった。吐き気を催す悪人とはいえ、殺してしまった。謝罪も反省も改心もできない状態にしてしまった。本当に、ごめん」
「謝るのは私の方だよ。私を長年苦しめていた人が死んだと知って、気がついた。私はずっと、私の代わりに父親を殺してくれる人を探していたんだって」
にわかに、声に含まれる潤いの成分が高まった。呆気なく、涙が溢れ出す。九条さんの瞳からも、僕の瞳からも。
「でも、怖くてできなかった。ありとあらゆる意味で怖かったから。巻き込んでしまって、損な役回りを押しつけてしまって、ごめんなさい。遠藤くんは無関係なのに、こんなことになってしまって」
「いいよ。もういいよ。過ぎたことなんだから。九条さんの悲願が叶って、僕も嬉しいよ」
言葉が途切れる。どちらからともなく、僕たちは抱き合った。鉄臭さが混じった体臭が、呼気の微弱な風圧が、断続的に洟をすする音が、間近にある。体温や肌の柔らかさがダイレクトに伝わってくる。言葉にならない思いや感情が、全身全霊で僕へと送信されている。
僕はそれらの全てを受け止める。送信者と同じように滂沱と涙を流しながら、全身全霊で。
互いに泣きやんだのが、密着状態を解除する合図となった。
「九条さん。今から僕は自首するつもりだけど、その前にしてほしいことはない?」
言葉は、自分でも驚くほど滑らかに口から出た。返答は、質問の内容を事前に把握していたかのように迅速だった。
「セックスがしたい。次はいつ会えるか分からないから」
「九条さんも、この生活は終わりにしなければならないと考えているんだね」
「ええ」
またしても即答だ。どこか吹っ切れたような、それでいてやけくその開き直りではない、晴れやかな即答。
「父親という異常が消えた以上は、そうするべきだから。禊をして、それから、普通の人間として生きていく」
僕たちは再び抱き合い、唇と唇を重ね合わせる。
禊とは、司法に身を委ねることなのか、性行為を指すのか。頭の片隅で一瞬疑問に思い、全てを忘れて肉欲に身を委ねた。
「九条さん、九条さん」
肩を弱く揺さぶる。触れた瞬間、生きている人間の柔らかさと温度が感じとれたので、声は微かながらも震えを帯びた。本当は力いっぱい揺さぶりたかった。フィクションの世界の取り乱した人のように振る舞いたかった。しかし、そうすれば九条さんを苦しめることになる。
恐る恐る、という形容が適当な力で揺さぶり、時折手を止めて顔を見つめる。そのくり返しの中で時は過ぎていき、
突然、九条さんの右手が一瞬痙攣した。思わず息を呑み、まず彼女の右手を、次いで顔を凝視する。額の傷は痛々しく、毒々しいが、出血は止まっている。視線を注がれたことに反応したかのように、かさついた唇が震えた。
瞼が開いた。深い眠りから目を覚ましたときのような、緩慢な開き方だ。三分の二ほど開いたところで瞼は止まり、瞬きを挟んで全開にされる。僕の姿を捉え、瞳が見開かれる。たちまち潤いに覆われた。その変化に、僕の目頭は急激に熱を帯びる。
「九条さん、大丈夫なの? 額の傷……。あんなにも打ちつけられて、今は止まっているけど、あんなにも血が出ていた」
「私は平気。頭が痛いけど、そう酷くないから。だから、平気」
声が微かに震えているものの、口調自体は思ったよりもしっかりしている。僕を心配させまいと、症状をいくらか過小に申告しているのだろう。ただし、しゃべるのに支障はないし、命に別状はない。
「よかった。ああ、よかった……」
その一言が、僕の現在の想いの全てだった。
「遠藤くんこそ無事なの? ……父親は?」
「殺したよ。ついさっき、僕が殺した。心臓が止まっていることも確認したから、確実に。ほら」
すぐ隣に横たわっている人体を、というよりも肉塊を指差す。九条さんはそれを数秒間、時が止まったかのように微動だにせずに見つめ、全てを理解した顔で深く頷いた。
「ごめんね。もしかしたら、別の道があったのかもしれないけど……。九条さんと九条さんの父親、両方が生きたままでも九条さんが幸せになる道があったのかもしれないけど、自分を抑えられなかった。吐き気を催す悪人とはいえ、殺してしまった。謝罪も反省も改心もできない状態にしてしまった。本当に、ごめん」
「謝るのは私の方だよ。私を長年苦しめていた人が死んだと知って、気がついた。私はずっと、私の代わりに父親を殺してくれる人を探していたんだって」
にわかに、声に含まれる潤いの成分が高まった。呆気なく、涙が溢れ出す。九条さんの瞳からも、僕の瞳からも。
「でも、怖くてできなかった。ありとあらゆる意味で怖かったから。巻き込んでしまって、損な役回りを押しつけてしまって、ごめんなさい。遠藤くんは無関係なのに、こんなことになってしまって」
「いいよ。もういいよ。過ぎたことなんだから。九条さんの悲願が叶って、僕も嬉しいよ」
言葉が途切れる。どちらからともなく、僕たちは抱き合った。鉄臭さが混じった体臭が、呼気の微弱な風圧が、断続的に洟をすする音が、間近にある。体温や肌の柔らかさがダイレクトに伝わってくる。言葉にならない思いや感情が、全身全霊で僕へと送信されている。
僕はそれらの全てを受け止める。送信者と同じように滂沱と涙を流しながら、全身全霊で。
互いに泣きやんだのが、密着状態を解除する合図となった。
「九条さん。今から僕は自首するつもりだけど、その前にしてほしいことはない?」
言葉は、自分でも驚くほど滑らかに口から出た。返答は、質問の内容を事前に把握していたかのように迅速だった。
「セックスがしたい。次はいつ会えるか分からないから」
「九条さんも、この生活は終わりにしなければならないと考えているんだね」
「ええ」
またしても即答だ。どこか吹っ切れたような、それでいてやけくその開き直りではない、晴れやかな即答。
「父親という異常が消えた以上は、そうするべきだから。禊をして、それから、普通の人間として生きていく」
僕たちは再び抱き合い、唇と唇を重ね合わせる。
禊とは、司法に身を委ねることなのか、性行為を指すのか。頭の片隅で一瞬疑問に思い、全てを忘れて肉欲に身を委ねた。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる