僕は君を殺さない

阿波野治

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「裕也」

 僕の名前を呼ぶ声に、キーボードを叩く十指は止まる。
 振り向くと、戸口に女性が佇んでいる。豊かな黒髪が華奢な肩に垂れ、サマーセーターの純白と好対照だ。色白の顔に浮かんでいるのは、三十六歳相応の落ち着いた笑み。

「翡翠。もしかして、ずっと見てた?」
「うん。『違うかなぁ』って独り言を言いながら、何度も首を傾げていたあたりから」
「それ、書き始めたばかりだから、結構前だね。声をかけてくれればよかったのに」
「仕事をする裕也を見ていたかったの。今日の裕也、なんだか集中力が凄くて、ああ、なんかいいな、って思ったから」

 仕事中でも書斎のドアを開け放しているのは、翡翠に要望に基づく処置だ。集中していて微動だにしない後ろ姿。適切な一語を見つけあぐねてうんうん唸っている後ろ姿。頬杖をついてディスプレイを見ながら考えごとをしている後ろ姿。とにかく、僕の後ろ姿を眺めるのが好きなのだそうだ。僕としても、いい意味で緊張感が保てるのは歓迎だし、好意的な視線を背中に感じるのは嫌ではない。少し休憩がしたいときや、話がしたくなったときに、互いが気軽に出入りできるというメリットもある。翡翠は僕の仕事の邪魔は絶対にしないから、迷惑に思ったことは一度もない。同業者からすれば異質なのかもしれないが、僕はなんの問題もなくやれている。

「全然気づかなかったよ。恥ずかしいな。でもまあ、やましいものを書いているわけじゃないからね」

 僕は部屋の隅にあった予備の椅子を引っ張り出し、僕の椅子の後ろに置く。翡翠は歩み寄ってそこに腰を下ろし、僕は椅子を回して彼女に向き直る。翡翠は僕の体を避けるように上体を斜めに倒し、デスクトップパソコンのディスプレイを覗き込む。どうかしたの、と尋ねようとすると、

「互いの呼び名、名字をくんづけさんづけなんだね」
「うん。あのころの出来事を書いた小説なんだから、当時の呼び名に忠実であるべきだと思って」
「まあ、そうだよね。そうしないと不自然」

 一つ頷き、体の傾きを是正して僕に目を合わせてくる。ぎぃ、と椅子が軋んだ。

「でも、名前を呼び捨てが当たり前になった今では、違和感しかないね」
「そうだね。話をするようになってすぐに捕まって、十年刑に服して出所して、再会を果たしたあとすぐに結婚。だから、期間としては呼び捨ての方が長いんだよね。会っていなかった期間が長すぎたせいで、全然そんな気がしないけど」
「波乱万丈な人生だよね、お互いに」
「そうだね。でも、漸く落ち着いてきた」
「だから、一つの区切りとして、自伝的な小説に挑戦することにした。そうだよね?」
「そういうこと」
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