僕は君を殺さない

阿波野治

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 刑期を終えたあと、家族との関係に悩み、自立したいと願う僕のもとに訪問した人物、それが翡翠だった。虐待された経験を持つ人々を支援する団体からの支援を受けつつ、アルバイトで生活費を稼ぎながら、市内のアパートで独り暮らしをしている、と彼女は報告した。僕が置かれている現状について説明すると、「うちに来て二人で暮らそうよ」と屈託なく微笑んだ。支えてくれる人に恵まれた翡翠は、十年という歳月を経て、感情を表に出すのが見違えるほど上手くなっていた。

 九条翡翠が普通の人間に変質を遂げていたことに、多少の困惑はあったが、すぐに受け入れられた。ただ、二人で暮らすという提案には抵抗感を覚えた。彼女が普通の人間になったからこそ、躊躇いがあった。

 十年前の九条さんならまだしも、普通になった彼女と前科者の僕が、釣り合うはずがない。同居しても迷惑をかけるだけだ。九条さんのことは好きだけど、普通になったからといって好きだという気持ちが変わるはずもないけど、普通と異常が一緒に暮らすなんて不可能。好きだからこそ、迷惑をかけたくない。
 しどろもどろになりながらも、僕はありのままの気持ちを打ち明けた。翡翠は微笑みを崩すことなく、適時相槌を打ちながら、話に耳を傾けてくれた。聞き終わると、なにもかもを肯定するように一つ頷き、一層深く微笑んでこう言った。

『十年前は助けてもらったから、今度は私が遠藤くんを助ける番。あのときだって、なんとかなったんだもの。今回もきっといい結果が出るよ。絶対に出る。さあ、行こう』

 双眸から涙が溢れた。好きな人からこんなにも温かく力強い言葉をかけられて、心を動かされない人間はいない。従わない人間はいない。普通から外れていようと、消えない罪を背負っていようと、そんなこととは無関係に。
 こうして僕たちは二人で暮らし始めた。

 普同居生活はなかなか大変だった。翡翠はアルバイトだし、僕は職に就くことすらままならなかったので、生活は貧しかった。それでも、実感の上での大変さの度合いが、「凄く」ではなく「なかなか」止まりで済んだのは、常に寄り添い、支えてくれるパートナーの存在が大きかったのは言うまでもない。
 自然体で笑い、誰とでもしゃべれるようになっても、人付き合いに苦手意識があることに変わりはない。フラッシュバックに襲われることも時折ある。精神的な苦境に立たされたとき、僕の存在を思い出しただけで心は落ち着いたし、そのたびに献身的に慰めてくれるのが嬉しかった。そう謝辞を伝えられたのは、同居を始めて一か月になる日の夜だった。僕が娑婆に出て初めて、誰かに貢献できたと感じた瞬間だった。

 片っ端から羅列していけば際限がないくらい、いろいろなことがあった。

 あのとき途中で終わってしまったセックスは、二人暮らしを始めた日の夜にした。本来ならば最も性欲が盛んな十年を抑圧していた影響で、下品な言い方になってしまうが、溜まっていた。僕の行為には、多少なりとも自分勝手なところがあったと思うのだが、翡翠は鷹揚に是認し、包み込んでくれた。性的快感を得ることよりも、愛する人の存在を、温もりを、最も近い場所から感じられるのが嬉しいのだと、身をもって知った。

 獄中生活での果てしない無聊を慰めるべく、雑文を書き綴った経験を活かそうと、僕は作家を志した。もともと文才などない。道のりは決して平坦ではなかったが、翡翠の温かく心強い支援と、十年間で培った忍耐力が実を結んで、大衆文芸系の新人賞を受賞できた。デビューしたてのころは鳴かず飛ばずだったが、今では二人が暮らしていけるだけの稼ぎを得るまでになった。翡翠もアルバイトは続けているので、現状、生活にはある程度余裕がある。新婚のころは考えられなかったことだ。

 生活に余裕が生まれたことで、翡翠と共に歩む人生はますます楽しくなった。今はまだアパート暮らしだが、僕がもっともっと結果を出せば、マイホームも夢ではないだろう。子供が欲しいとは互いに思っていない。今はただ、二人きりの時間を満喫したかった。

「そういえば翡翠、思い出したんだけどね」
 僕はおもむろに切り出した。

「僕たちが出会った日、翡翠が僕に放った第一声、『君は私を殺すよ』だったよね。結局、あれはどういうつもりで言ったの?」
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