塵埃抄

阿波野治

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男気

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 千尋は通りに出てタクシーを拾い、行き先を告げた。
 若い運転手はよく喋った。日本人メジャーリーガーのKが、高額の契約を蹴って数年ぶりに古巣に復帰し、「男気」などと言われて褒め称えられているが、加齢に伴う力の衰えと、古巣に優勝が狙える戦力が整ったこと、その二点を考慮し、あくまで打算的に日本球界でプレイすることを決めたに過ぎず、賞賛を送るに値しない。そのような内容の話だった。千尋は野球に興味がないので、曖昧に相槌を打つに終始した。
 快調に飛ばしていたタクシーが、突然、急ブレーキをかけて停車した。千尋はフロントガラス越しに車外を見た。タクシーの進路を塞ぐように、一台の黒塗りの高級車が停まっている。運転席のドアが開いた。出てきたのは、明らかに堅気ではない、体格のいい中年男。中央に大きく「C」の一字が入った赤色の帽子を被っている。中国のマフィアだ。
 中年男は運転手に詰め寄り、ドスの利いた声で彼を罵倒し始めた。フロントドアがどうのこうの、などと喚き立てている。運転手は顔を真っ青にして平謝りに謝った。いつの間にか、二人を多数の市民が取り囲み、中年男に拍手を送ったり、運転手をブーイングしたりしている。
 とうとう運転手は土下座をした。中年男は鼻で笑った。野次馬たちも笑った。中年男は「俺は心が広いから許してやる」という意味の捨て台詞を吐いて車に乗り込み、走り去った。
 運転手はうなだれて運転席まで戻り、タクシーを発進させた。
 料金より余分にお金を払い、「お釣りは結構です」と言おう。千尋は心の中でそう強く決意する。それがきっと、私が、私たちが選択可能な、彼らへの唯一の対抗手段だから。
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