幻影の終焉

阿波野治

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 えーっと、どこからだったかな。タンクトップの胸元から左手を差し入れて――違う。少し早い。持て余している左手をどうするかについて考えていたのだった。

 さて、どうしよう。
 両手で胸を弄ぶのも悪くないが、第三者が見た場合、押さえつけた女の胸を両手で揉むという絵面は、どことなく滑稽だ。現状、神社の境内に第三者が足を踏み入れる可能性は低いと思われるので、心配は無用。堂々と両手で胸を揉みしだけばいいのだが、焼き魚の小骨のように心に何かが引っかかる。自慢ではないが、僕は神経質な性格だ。
 彼女の胸がもう少し大きければ、もしかするとその印象も消えるか、消えたと見なしても支障ないレベルまで縮小するかもしれない。だからといって、サイズを任意に変更できるわけがないのだから、文句をつけるのは筋違いだ。そもそもの話、僕は彼女の胸の大きさに満足している。両手で胸を揉むのは潔く諦めて、左手は他の部位へと差し向けるとしよう。
 胸以外の有力な候補は、やはり股間だろうが、その部位はブルージーンズに包まれている。予想される生地の硬さを考慮すれば、それ越しに愛撫したところで、期待通りの興奮は得られそうにない。

 新たなる選択肢を模索しようとした瞬間、自らの股間のことが急に気になった。
『戦争の足音』は抵抗を――まあしないだろうけど、妄想を成り立たせるために抵抗したということにして――その暴れる体を押さえつけるために、僕は股間を彼女の体の一部に押しつけることになると予想される。体勢を考えれば、太ももに密着していると考えるのが最も現実的だ。生地に厚みがあるとはいえ、太ももの柔らかさくらいは感じ取れるに違いない。抵抗するというのは、要するに体を動かすということだ。つまり、彼女が抵抗を止めるか、僕が自らの股間の位置を変更しない限り、僕の股間には絶えず刺激が加えられることになる。
 ただでさえ心身が昂ぶっている時に、そのような行為を及ぼされれば、愚息は僕が望んでいないタイミングと場所でリミットを迎えてしまうかもしれない。それは困る。『戦争の足音』と性交するという目的が達成できなくなる、という意味で困る。
 その事態を回避するにはどうすればいい?

 妄想はここで行き詰まった。
 同時に、現実世界における僕も危機を迎えていることを自覚する。股間が爆発しそうなのだ。偏に、妄想にのめり込みすぎたせいで。無論比喩だが、実状と比喩との距離はさほど隔たっていないと言っても過言ではないほど、危険な状態なのは確かだ。爆発を回避できたとしても、怒張したものがつっかい棒の役割を果たしているせいで、歩行さえままならないのだから、行き着く場所は同じだ。

 妄想は充分に堪能しただろう、湯川健次よ。圧倒的に自由な世界で遊ぶのはこれくらいにして、とにもかくにも冷静になれ。
 無謀な要求にも思えたが、「静まれ」と呼びかけたのを境に、愚息は駆け足で落ち着きを取り戻していく。素直に言うことを聞いたのだから、愚息ではなく、自慢の息子と言うべきか。世に存在する息子という息子が、僕の愛息のように聞き分けがよかったならば、父親殺しの大罪は一件も発生しないに違いない。
 それに並行して、予想外の変化が起きた。興奮が、『戦争の足音』をレイプしたいという欲望が、萎えていったのだ。
 不可解ではあったが、不都合な変化では決してない。心の昂ぶりが一定の水準を下回り、冷静と呼べる状態になった瞬間、思う。
 レイプって、何だよ。十四・五歳の盛りがついた餓鬼みたいに。たわけか、僕は。

『戦争の足音』は依然として僕の存在には気がついていない。いや、気がつかないふりをしているだけか。
 どちらだとしても構わない。満を持して二つの世界を接続しよう。

「後藤さん」

 顔が持ち上がった。声を発した瞬間、声を発したのは僕だと分かったはずだが、それ以上の反応は示さない。数秒前までレイプのシミュレーションをしていただけに決まりが悪いが、何食わぬ顔で歩み寄る。

「何をやっているの、こんなところで。平日の昼間だっていうのに」

 返事はない。例によって無表情だったが、顔色は悪いようには見えない。怪我などもしていないようだ。
 返事を待つ間、僕はタンクトップの膨らみに視線を注いだ。薄暗さに祟られて、ノーブラにタンクトップという格好ならば見えて然るべきものを視認できないのは残念だったが、キュートな膨らみを堂々と眺められるだけでも充分にありがたい。

「あなたこそ、どうして神社に来たの」

 鑑賞に集中していられた時間は十数秒で終わりを迎えた。表情にお似合いの平板な声だった。

「暇潰しに散歩をしていたら、たまたま君を見かけたんだよ。ニートだから暇だけは有り余っているんだ」
「よく平然と打ち明けられるね、そんな恥ずべき事実を」
「そういう君は、どんな立派な理由があってここにいるの?」
「ストレスを発散していたの。あそこで」

 僕の体を避けるように前方を指差す。境内を囲む木々と比べて一回りも二回りも大きな樹がそびえ立っている。幹回りは二抱え以上あり、背丈は二階建ての住宅の屋根よりも高い。
『戦争の足音』は石段から腰を上げると、僕に向かって小さく顎をしゃくり、大樹へと歩を進める。後ろに従う。

「これ、全部わたしの仕業」

 人差し指で幹を指し示す。猫が引っ掻いたような切り傷が夥しく刻まれている。

「これで傷つけたの」

 そう言ってジーンズのポケットから取り出したのは、カッターナイフ。威嚇するような、薄気味悪い音が聞こえ、鈍色の刃が五センチほど突出した。思わず顔が強張ったが、彼女は敵意も殺意も破壊衝動も醸していないことに気がつき、誤魔化すように苦笑を浮かべる。

「チョコに針を刺したり、樹を傷つけたり……。君、いつもこんなことをやっているの?」
「いつもじゃないよ。どうしてもストレスを我慢できなくなった時に、仕方なくやっているだけ。例えば、お腹が空いた時とか」
「何だよ、それ。……何はともあれ、そのカッター、早いところ仕舞ってくれないかな。君、無表情だから、おっかないんだよ。何をしでかすか分からない感じが」

『戦争の足音』は素直に要求に従った。僕は溜息をつき、顔から苦笑を消して彼女と目を合わせる。

「君、昼ご飯はまだ? まだなんだったら、一緒に食べに行こうよ。僕が奢るから」
「何を企んでいるの?」
「人聞きの悪いことを言わないでよ。他意なんてない。一緒に食事がしたいと思ったから誘ったまでのことだよ」

『戦争の足音』は溜息を洩らした。そして口元を僅かに、しかし明白に緩める。

「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

 微笑んだ。そう形容するにはあまりにも小さすぎる変化だったが、彼女が自ら無表情を崩した前例はなかった。小さいが大きな一歩というやつだ。

「――ただし」

 しかし、誘いを受け入れてくれたことに謝意を伝えようとした時には、口元から笑みは消えている。

「わたしから個人情報を訊き出そうとしないと約束して。わたし、人に干渉されるのは嫌いだから。それを約束してくれるなら、付き合ってあげてもいいよ」
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