黒猫リズの流浪録

阿波野治

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痴話喧嘩と黒猫

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「いつまであたしを待たせれば気が済むの? こんな生活、もう限界!」

 赤毛の女の叫び声が響く。声が大きくならないよう、感情的にならないよう注意を払ってはいるが、声が尖るのを抑えられない、といった様子だ。
 女はシャツとジーンズというラフな服装に着替え、髪の毛を後頭部で一つに括っている。アンクレットとブレスレットは取り外されている。きついサイズのシャツに締めつけられ、くっきりと浮かんだ胸部の膨らみが、声を荒らげるたびに震えている。

「今日だって、店の常連さんが知らせに来てくれなかったら、あたし、今頃留置所に入れられていたよ? 公共の場での猥褻行為だから、禁固刑。出るために罰金を支払うとなったら、また借金が増えることになる。一歩間違えれば取り返しがつかないことになっていたのに、アレク、あなたは呑気に――」
「サーシャにはそう見えるかもしれないけど、僕にも僕なりの苦労がある」

 おずおず、といった風に青年――アレクは口を挟む。女――サーシャと同年代だろうか。八の字になった眉と、神経質そうに盛んに瞬きをする様子が、いかにも気弱そうだ。

「言い訳をするつもりはないけど、僕は今、必死に改稿作業を行っているんだ。今の原稿を最上の形に仕上げることができれば、出版社はきっと僕の才能を認めてくれる。だから、サーシャも辛いと思うけど、もう少しの我慢だと思って――」
「言い訳をするつもりはない? そう言っている時点で、言い訳以外になにものでもないでしょうが!」

 アレクの肩が跳ねる。サーシャは唇が唇に、胸が胸に当たるほど彼に近づき、怒涛のように捲し立てる。

「ずっと前から思っていたけど、アレクの一つの作品に固執する姿勢、それこそが諸悪の根源なんじゃないの? あんたね、今手直ししているっていう原稿、もう何社に断られたの? 記憶が確かなら、十社近くから『その原稿を本にしても売れません』って言われてるよね。改稿すれば、改稿すればってあなたは言うけど、一度も採用に至らないっていうことは、あなたの判断の方が間違っているんじゃないの? 違う?」
「そ、それは……」
「愚作にいつまでも拘っているから、いつになっても本を出せないんじゃないの? 私が今メインでやっている商売だって、金を落としてくれる客には料金以上のサービスをするけど、財布の紐が固い客は適当にあしらってる。文句があるなら余所のお店へどうぞ、あたしは別に何一つ困りませんからって。商売なんだから、そういう冷酷さっていうか、割り切りも必要じゃないの? アレクは甘いのよ。優しいを通り越して甘いから、あたしが苦い思いをしてる」
「君が苦しい思いをしているのは百も承知だ。そのことは片時も忘れていないよ」
「だったら、一刻も早く結果を出してよ。そのためには、今のやり方では駄目。別の方法を試す必要がある。そう言ってるの」
「いや、だから、僕はそのために――」

 乾いた音が響き、アレクの顔が右に四十五度ほど傾いた。驚愕の表情を浮かべる彼の頬には、くっきりと手形がついている。

「言い訳ばっかり、グチグチ、グチグチ……。あなたがそこまで情けない男だと思わなかった。幻滅したわ」

 鬼のような形相で睨みつけながら吐き捨て、アレクに背を向ける。彼はサーシャの肩を掴もうとしたが、後ろ回し蹴りが体を直撃した。情けない声を漏らしてその場にうずくまる。

「あなたみたいな軟弱野郎の顔、もう見たくない。あなたの作品が本として世の中に出回ったら、また会ってあげてもいいわ。それまでは、何があろうと絶対にあたしの前に姿を見せないで。約束を破ったら、殺すから」
「そ、そんな……!」

 サーシャはアレクのもとを去り始める。大股で地面に靴底を叩きつけるような、憤然とした足取りでリズの方へ向かってくる。
 サーシャは異端か、もしくはそれに近い存在だ。歴とした異端として、異端な存在に親近感を覚えているリズは、彼女に挨拶の一つでもしようと考えた。異端ではないアレクのことはどうでもよかったが、その方が彼のためにもなる、という思いもあった。
 実行に移すべく、体を起こそうとした矢先、

「ああ、ムカつく……!」

 感情に任せて放たれた蹴りが、ゴミ箱を直撃。ゴミ箱は横転してゴミを路上にぶちまけ、リズは蓋ごと吹っ飛び、壁に激突して地面に落下する。
 サーシャはリズの存在には気がつかないまま、道の果てへと消えた。

 猫らしい反射神経と運動能力を咄嗟に発揮し、足から着地したリズは、アレクをじっと見つめる。
 彼はかなり長い間、呆然と地面に座り込んでいたが、やがて溜息と共に立ち上がった。尻についた汚れを払い、倒れたゴミ箱を元に戻す。さらに蓋をしようとして、その上に載っているリズを認めた。

「君、ゴミ箱の上で昼寝でもしていたのかい?」

 リズは返事をしないが、視線は逸らさない。アレクはその場に屈み、顔を覗き込む。

「ゴミ箱の上で寝ていて、蹴られた拍子に落ちちゃったのかな? ごめんね、僕の恋人が乱暴な真似をして。サーシャは普段は礼儀正しくて、物腰穏やかな人なんだけど、感情的になると手がつけられなくなるっていうか」

(アレクとサーシャが恋人同士? この男は雄としてあまり魅力を感じないが、彼女は雌猫のぼくの目から見ても魅力的な雌の人間だった。サーシャは、よほど変わった嗜好の持ち主なのだろうか)

「あ、汚れてる」

 アレクが指差したのは、リズの右脇腹の茶色い汚れ。広場で食べ物を投げつけられた時についたものだ。すぐさま舌で掃除をしたものの、頑固に毛にこびりついて、完全には払拭できなかったのだ。

「ごめんね。君は何一つ悪くないのに、こんな目に遭わせてしまって。僕の恋人が悪いんだから、尻拭いは僕がしなくちゃいけないね。君、家においで」

 意思表示をする間もなく、リズはアレクに抱き上げられ、胸に抱き締められた。

(脇腹の汚れは、アレクとは無関係の人間がつけたものなのだから、アレクが尻拭いをしなければならない理由は全くない。無関係な他人の手を煩わせるのは、本意ではない)

 思いとは裏腹に、抵抗の意思を示さないという形で、アレクの意向に従う意を表明する。
 ドロシー以来となる、人間の胸に抱かれる感触があまりにも心地良かったので、譲歩したのだ。

(抱かれるのが心地いいのは、ドロシーが女性で、胸が膨らんでいるからと思い込んでいたが――どうやら思い違いだったようだ)

「大人しいね。君、もしかして、元は誰かに飼われていたの?」

 口元を綻ばせ、リズの狭い額を指先で撫でる。

「それじゃあ、行こうか」

 異端の黒猫を抱いたまま、アレクは歩き出した。頬に未だに残っている、恋人に平手打ちをされた跡のことなど、気にも留めていないようだった。
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