黒猫リズの流浪録

阿波野治

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明暗の店

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 アレクが訪れたのは、入口が瀟洒な住宅街、裏口が陰気な裏町に面した、小さな建物。表玄関のドアの真上には、
『カフェレストラン エンブリオ』
 と記された木製のプレートが掲げられている。
 店内は建物の大きさから予想される通り狭く、四・五人が座れるカウンターと数脚のテーブルが置かれているのみ。内装は素っ気ないほどシンプルで、目立っているのは、壁際に置かれた大きな本棚。古今東西の古典小説と詩集が大量に陳列されている。

「ここは僕が経営しているカフェレストランだよ」

 猫らしく、初めて足を踏み入れる場所に警戒心を示したリズに向かって、アレクは微苦笑をこぼす。

「開店以来赤字続きだけどね」

 アレクはリズの脇腹の汚れを濡れタオルで綺麗に拭い、食事を用意した。白身魚の缶詰に、加熱済みの鶏のひき肉を混ぜ込み、削り節を振りかけたもの。浅い皿にたっぷりと盛りつけ、水が入った器と共に「はい、どうぞ」と床に置く。

(人間はなぜ、猫を見ると真っ先に食料を与えようとするのだろう? 猫の方からねだるならまだしも、ぼくは鳴き声一つ上げていないのに)

 溜息をつきたい気持ちで口をつけた食事は、予想以上に美味しく、リズはただでさえ丸い瞳をさらに丸くさせた。たった一口で、彼女はアレクのことを見直した。量は多めだったが、平らげるのにそう時間はかからなかった。

 リズが腹ごしらえをしている間に、アレクは彼女が落ち着ける場所を店内の隅に作った。「温州みかん」と側面に記されたダンボール箱に、新聞紙を敷いたもの。意識を取り戻した時のこと、ドロシーの家で過ごした短い時間のことを思い出し、リズは懐かしい気持ちになった。

「そろそろお客さんが来る頃だから、君はそこでゆっくり休んでいて」

 アレクはカウンターの内側に入って作業を開始する。リズは言葉に甘えて「温州みかん」の箱の中で丸くなった。

 しばらくして、店のドアが外側から開かれ、錆びた鉄の臭いが漂った。
 入店したのは、作業姿の中年男性。頭髪には白髪が混じり、顔面に刻まれた皺は一本一本が深い。年齢の割にがっしりとした体格だと、衣服越しにも分かるが、その体格を維持するのがやっととでも言うかのように、疲れた顔をしている。

(年齢的には、船頭の男性と同年代なのだろう。だが、この男は酷く老けている。人間が呼称するところの「おじさん」の年齢なのに、まるで「おじいさん」だ)

「いらっしゃい!」

 アレクはにこやかに応対する。男性はにこりともせずにカウンターに着き、料理名を口にする。アレクは注文を承り、忙しなく立ち働き始めた。
 料理を待っている間、男性は眠たそうな目で地方新聞を読んだ。やがて食欲をそそる匂いが漂い出し、食材を炒めていた音が止む。

「お待ちどうさま」

 カウンターに置かれたのは、細かく刻んだ野菜と米を炒め、旨味調味料と塩胡椒で味つけた料理。男性は読んでいた新聞を畳み、隣の椅子の上に置くと、スプーンを使って黙々と食べ始めた。食欲を満たすためだけに食べている、といった風情だ。
 料理が半分ほどに減ったところで、アレクは男性に話しかけた。仕事や体調などについて、気さくな口調で尋ねている。男性の受け答えは素っ気なく、「食事の邪魔をしないでほしい」というオーラを淡く醸していたが、一応、彼なりに誠実に回答しているようではあった。
 男性は食べ終わると、料金を過不足なく払い、呟くように礼を言って店を去った。

 後片づけが完了したのを見計らったかのようなタイミングで、新たな客が来店した。頭頂の毛がかなり薄くなった、ツギハギだらけの服を着た老爺。アレクに向かって軽く手を挙げ、先客が座っていた席に腰を下ろす。親しげな動作とは裏腹に、仏頂面だ。

「どうしたんです? 珍しく上機嫌そうですね」
「不機嫌じゃないというだけさ。ツケを溜めるばかりでは悪いと思って、あんたの作品に使えそうなネタを仕入れてきた」
「本当ですか? わざわざすみません」

 薄毛の老爺には、豚の塊肉と三色の野菜をローストしたものに、マスタードをベースにしたソースを添えた一品と、ロールパンが出された。調理の間、食事中、食べ終わってからしばらくの間と、老爺は延々と喋り続けた。
「作品に使えそうなネタ」というのは、知人から聞いたという、妻子ある男女の不倫話。登場人物は無闇に多いが、ストーリーは比較的単純で、「ありふれた」の一言で片づけられそうだった。
 アレクは終始にこやかに、芸術作品に昇華させるには陳腐すぎる実話に耳を傾けた。老爺は話し終えたのを潮に、代金を支払わずに店を後にした。

 その後、途切れ途切れながらも、何人かの客が『エンブリオ』のドアを潜った。客は容姿も、注文する料理も様々だったが、無愛想で、疲れた雰囲気を漂わせた者ばかりだ。

「あの黒猫、訳あって世話をしているんです」

 何人かの客に対して、アレクはリズのことを紹介したが、彼らは見向きもしない。

(広場にいた人間は、投げつけるのが食料にせよ石にせよ、あるいは何もしないにせよ、誰もが一時的にぼくに関心を払った。だが、この店を訪れる客はことごとく無関心。自分のことだけで精いっぱい、ということだろうか)

 客たちと比べると、きびきびと働き、笑顔を絶やさないアレクは、輝いて見えた。サーシャに言い負かされ、蹴られて地面にうずくまったのと同一人物は、とても思えない。

(アレクは異端ではない。人間における魅力的な存在か否かの基準は、恐らく他にあるのだろう)

*

 夜のまだ早いうちから、アレクは店を閉めた。

「今晩はここでゆっくりしていって。何かあったら鳴いて知らせるんだよ」

「温州みかん」の箱の中でくつろぐリズにそう告げ、奥の部屋に引っ込んだ。
 ドアは開けっ放しで、明かりが灯っている。早すぎる就寝、というわけではないようだが、とても静かだ。
 営業時間内にたっぷり眠ったし、元々夜行性なので、眠気は全くない。リズは好奇心に促されて箱から抜け出し、部屋を覗いてみた。

 アレクは書き物をしていた。思いがけない真剣な横顔に、リズは目を瞠った。

「おや、起きたの?」

 ほどなく見られていることに気づいたらしく、アレクは椅子ごとリズに向き直った。ペンを動かしていた時とは異なり、表情は柔らかい。

「出版社に売り込む予定の原稿を書いているんだ。正確には、書き直しているんだけど。路地裏で、サーシャと言い争っていたのを君も聞いたと思うけど、僕は作家志望なんだ。カフェレストランを開いて生活費を稼ぎつつ、空いた時間を執筆に充てているというわけ」

 誇らしげに胸を張る。瞬間、人間としてのアレクの魅力が極限まで高まったのを、リズは感じた。

「どんな物語か、君も気になる? それじゃあ、朗読してあげるよ」

 アレクは原稿用紙の束を手に椅子から立ち、リズと向かい合う形で床に胡坐をかいた。そして、紙に綴られた物語を冒頭から読み始めた。
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