黒猫リズの流浪録

阿波野治

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続きと終わり

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 アレクは澄んだ声で、やや早口に作品を朗読する。
 異端とはいえ、所詮は猫。人間界の事情に明るいとは言えないリズには、呑み込めない点もいくつもあったが、聞かされた長い物語を彼女なりにまとめると、以下のようになる。


 あるところに、平凡な読書好きの少年と、著名な踊り子を母親に持ち、跡を継ぎたいと願う少女がいた。二人は正反対の性格の持ち主だったが、芸術を愛するという共通項を持つが故に惹かれ合い、やがて交際を開始した。
 それから間もなく、少女の両親が事業に失敗し、多額の借金を一人娘に残して自殺した。少女は自らの生活費を稼ぎ、借金を返済するために、いかがわしい施設で働き始めた。踊りを愛する彼女は、幼少時から培ってきた技能を、母親から受け継いだ美貌を、特定の人間の醜い欲望を満たすために捧げた。屈辱的だったが、その仕事を拒む権利は彼女にはない。
 愛する少女の零落に、少年は心を痛めた。多額の借金を返済し、少女を明るい世界に復帰させるには、多くの売り上げが期待できる傑作を世に送り出すしかない、と少年は考えた。
 少年が決意を告げると、少女は涙を流して喜んだ。
 だが悲しいかな、結果が出ない。著名な踊り子の血を継いだ少女とは異なり、少年は作家としての才能を持たない凡人でしかなかったのだ。
 期待させられた分、失望は深い。燻り続ける少年の現状に、少女は苛立ちを露わにし、二人はいつしか喧嘩が絶えなくなり――。


「はい、おしまい」

 物語の途中で朗読を打ち切り、アレクは照れくさそうな微笑みをリズに向ける。

「僕自身は、歴史に残る一作だと自負しているけど、何度書き直しても、どの出版社の人からも改善点を指摘されてしまうんだ。実在の人物、しかも思い入れのある人物を題材にしているから、つい描写に力が入りすぎちゃうらしくて。そこを直すのと、あとは、ラストをどうするか。この二つを解決できれば、出版にこぎつけられるはずなんだけど」

 自信があるようなないような、彼自身にも分かっていないような口振りで、アレクは説明する。リズは黙って話に耳を傾ける。

「いや、『はず』じゃない。絶対に、絶対に、この作品を世に送り出してみせる」

 力強い決意の言葉が吐き出された直後、裏口のドアが激しくノックされた。
 アレクは弾かれたように立ち上がり、ドアへと走った。

(何だろう?)

 急がない足取りで、リズも後に続く。
 ドアを開けた瞬間、アレクは声を上げた。

「サーシャ!」

 訪問者は彼の恋人だった。
 赤い髪の毛は乱れ、神経が高ぶっているらしく、双眸は血走っている。呼吸は荒く、一糸まとわぬ姿だ。

「私と逃げて」

 呆気にとられている恋人に向かって、サーシャは早いテンポで言葉を並べる。

「悪質な客を殴ったら、その男は暴力組織の一員だったみたい。何とか逃げ出したけど、追われてる。捕まったら、借金完済するまでどころか、一生性奴隷にされちゃう。だから、お願い。二人でこの町を出よう」
「いや、でも……」
「いいから、早く!」
「逃げ切れるとでも思っているのか?」

 氷で作ったナイフのように冷ややかな声。アレクは右に、サーシャは左に顔を向けて、フリーズする。
 リズは戸口まで歩を進め、状況を確認する。
 道の左右から、総勢十名ほどの白尽くめの男たちが、ゆっくりと『エンブリオ』へ向かってくる。上下共に白いスーツ、顔を隠す白い布。

(彼らは、あの時船頭の男性を殺した――)

「家の中に逃げ込んだっていいんだぜ」

 迫りくる男たちの一人が、笑いを含んだ声で言う。生殺与奪の権を握った者特有の憎らしいまでの余裕が、その声からは読み取れる。

「お前たちが籠城するなら、こちらは家ごと燃やすまでだ。裏町は古い木造の家屋が多いから、被害は一軒では済まないだろうな。他人様に迷惑をかけたいなら、どうぞ引きこもってくれ」

 アレクは下唇を噛み締め、恋人を抱き締める。サーシャは今にも泣き出しそうだ。男たちの靴音は着実に近づく。

「気弱そうな兄ちゃん、その女を渡すんだ。俺たちとしても、商売道具を燃やしたくはないんでね」

 相も変わらず笑い声を含んだ、先程と同じ男の言葉。

「そうしたら、あんたの命だけは――」
「うああああ!」

 突然、アレクがサーシャを突き放すと共に咆哮し、喋っている白服に殴りかかった。喧嘩慣れしていないと一目で分かる、顔を狙った大振りの一撃だ。
 男は易々と攻撃をかわし、アレクの腹に拳を叩き込んだ。呆気なく地面に膝をつき、激しく咳き込む。「アレク!」というサーシャの絶叫。

「調子に乗るな、雑魚が」

 男がアレクを蹴飛ばしたのを合図に、他の男たちが一斉に襲いかかった。アレクは顔を歪めながらも立ち上がったが、猫の目から見ても貧弱な男が、十人もの荒くれ者相手に勝てるはずもない。一方的に殴られ、蹴られ、傷ついていく。

「やめなさいよっ!」

 サーシャが男の一人に掴みかかったが、手刀を首筋に浴び、一撃で気絶させられた。地面に俯せになり、蹴られる一方のアレクは、最早身じろぎ一つしていない。
 やがて男たちは蹴るのを止める。アレクの顔は原型を留めないほど潰れ、四肢は四本とも有り得ない方向に折れ曲がり、失禁している。

 男たちはアレクの靴から靴紐を抜き取り、彼の首に巻きつける。二組に分かれて両端を持ち、

「せーの」

 掛け声を合図に、渾身の力で左右に引っ張った。紐が肉に食い込み、全身が激しく痙攣する。
 やがて体の震えが治まり、彼らは紐を手放す。
 男たちの一人が、気を失ったままのサーシャを軽々と肩に担ぐ。彼らは裏町の方面へと去っていった。

 リズは家の中を見る。書きかけの原稿が、永遠に完結することのない悲しみを表明するかのように、無秩序に床に散らばっている。
 顔を道に戻すと、サーシャの赤い髪の毛が落ちている。男たちが去った方角に向かって、不規則な間隔を置きながら、何本もの髪の毛が落ちている。
 リズは赤毛を辿り始めた。

*

 赤色の髪の毛は、裏町の奥の奥にある、三階建ての建物の裏口で途切れていた。一見平凡に見えるが、それでいて、感覚が鋭敏な存在ならば看過したくてもできない、一種異様な雰囲気を周囲に放っている。
 明かりのついた窓がある。カーテンがかかっているが、きちんと閉まっていない。すぐ傍にガラクタが積み上げられている。リズは軽やかにそれに登り、部屋の中を覗き込んだ。

 サーシャがいた。一糸まとわぬ姿で、仰向けに横になっている。瞬きをしているので、意識があるのは確かだが、瞳からは生気が感じられず、虚ろだ。
 裸の男たちが彼女に群がっている。汗まみれの肌、見苦しく突き出た腹、剥き出しの性器。一人がサーシャにのしかかり、残りの者は彼女の唇や指や脇に舌を這わせている。胸の膨らみや太ももに性器を押しつけている者もいる。彼らは全員、狐の面で顔を隠している。

(……行こう)

 窓から顔を背け、リズはガラクタの頂上から飛び降りる。肉球が消音装置の役割を果たしているので、着地音は立たない。

(ぼくはこの町に長く滞在しすぎた。朝日が昇るまでに、どこまで行けるだろう)

 ゆっくりと歩いて建物から遠ざかった。
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