黒猫リズの流浪録

阿波野治

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市場と橋

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 日の出から遅れること約一時間、広場を取り巻く町からリズは脱した。
 未舗装の、左右にあまり建物が建っていない、カーブが多い田舎道だ。朝のまだ早い時間帯ということもあり、人通りはない。

(やはり、孤独はいい。他者から干渉を受けないから、物理的にも精神的にも安定している。寂しいと感じる個体もいるだろうが、ぼくにはこの方が性に合っている)

 道はいつしか、山をすぐ右に見る位置を走っている。稜線はなだらかだが、山頂付近になると急に傾斜が増し、あたかも神話の時代に建造された尖塔のようだ。冠雪している頂上を除いて、濃淡様々な植物の緑が覆っている。
 空が明るさを増すにつれて、人通りが増え始めた。商人風の身なりの、大荷物を抱えた者が目立つ。馬車も多く行き交い、リズは白尽くめの男たちのことを思い出した。ただし、殺人の大罪を犯した男たちとは違い、彼らが乗る馬車を牽くのは角を持たない馬だ。
 大量の荷物を楽々と引っ張るほど動物にぶつかれば、小さな体のリズはひとたまりもない。道の端の端、山に属する領域に体の半分を常に置くようにして歩いた。

 異端であるが故に、普通の猫よりも感覚が鋭敏なリズは、山中に畏怖すべき存在が潜んでいる気配を感じていた。ひとたび破壊活動を開始すれば、生半可な生物では太刀打ちできない、強大な力を持つ何らかの存在を。正体は定かではないが、異端というよりは神に近い存在なのだろう、と推察された。
 畏怖すべき存在の眷族か否かは定かではないが、山中には他にも、危険な生物が数え切れないくらい棲息しているらしい。彼らは総じてテリトリーの概念を持ち、侵入者を徹底的に排除しようという意志を有していることが、テリトリーの外にいるリズにも何となく掴める。生活圏に侵入しても、足早に通過するだけならば部外者にも寛容だった、裏町に住む野良猫たちとは大違いだ。

(触らぬ神に祟りなし、か)

 ひたすら歩き続けていると、開けた場所に出た。
 出店が軒を連ね、狭い通路を無数の人々が行き交っている。雰囲気は広場に似ているが、噴水はなく、人を楽しませることを目的としたパフォーマンスの類は一切行われていない。出店している店の数は膨大で、品揃えも豊富だ。雑多な匂いが混ざり合い、空気の密度が濃い。
 どうやら市場のようだ。

 順路に沿って散策してみて分かったのは、農産物が多く販売されているということだ。奇妙な形状の大小の野菜や、エキセントリックなカラーリングの果物などは、それらを食べられないリズにとっても、ただ眺めているだけでも愉快で、飽きることがない。

「泥棒猫か。珍しい客だな」

 魚介類を売っている店の前で、奇妙な姿の魚たちを眺めていると、店主の男性に見つかった。外国の文字がプリントされたシャツを着ていて、いかにも腕っ節が強そうだ。

「人を食い殺さない分、ライオンよりもかわいいが、売り物を盗み食いされちゃ敵わねぇ。特別サービスしてやるから、向こうで食え」

 慣れた手つきで手元の魚を捌く。何かが飛んできたかと思うと、猫の胃では持て余すほど大きな切り身が足元に落ちている。

(言うことを聞いておいた方がよさそうだ)

 切り身を咥え、大人しく退散した。
 通行人の邪魔にならない、会場の隅まで移動し、魚を平らげる。満腹感に促されて一眠りし、目を覚ました時には、現在地に対する関心はかなり薄れている。
 空腹が満たされたから、というのが最大の要因だろう。しかし、リズはそもそも、市場を訪れた当初から、この場所に積極的な好感を抱いていたわけではなかった。たくさんの人がいて物があるので、暇つぶしにはもってこいだが、いささか過剰すぎる。

(行こう。過ごすなら、もっと静かな場所がいい)

*

 市場を出て、引き続き山に近い道を歩く。山とは反対側に、時々集落が見え、そこへ至る道が分岐している。リズは集落への道に折れることなく、道なりに歩き続ける。
 平穏な一夜を過ごしたいという願望を、いつからかリズは抱いていた。山に棲息する生物たちは、自らテリトリーの外に出ることはまずないだろう。しかし、自らに不利益をもたらす他者を容赦なく攻撃する、彼らの凶暴性と冷酷さに、彼女は警戒感を払拭できずにいた。

(平穏な夜を過ごしたい。船頭の男性の時のように、肌と肌を密着させるという形ではなくてもいいから)

 道から見えるような集落は、この先いくらでもありそうだ。今はまだ夜ではない。だから歩き続ける。それだけだった。

*

 行く手に橋が見えた。板を繋ぎ合わせて足場を作り、両岸に渡しただけの、簡易な橋。風が吹くたびに不穏に軋み、頑丈な作りではないことが窺える。下は深い谷になっていて、か細い川が流れている。落下すれば当然、命はない。
 橋を渡った先には、集落が広がっている。これまで見かけた中では、最も規模が大きい。住宅はみな、木造のかやぶき屋根で、白煙が立ち昇っている煙突が何本かある。

(さて、どうしようか)

 袂に座り、リズは思案する。
 猫は高所を苦にしない。従って、橋を渡るのが恐ろしいわけではない。対岸にある集落は、部外者を惹きつけるような、それでいて拒むような、一種不可思議な雰囲気を醸している。足を運ぶのと素通りするのと、どちらが正しいのか、容易には判断がつかないのだ。

 不意に、人の気配。
 咄嗟に近くの茂みに隠れ、様子を窺う。
 若い母親と、五・六歳くらいの女の子。十中八九、親子だろう。髪は黒く、肌は褐色で、耳の先が少し尖っている。裾にレース飾りがついた、上下が一続きになった紫色の衣服に身を包んでいる。胸に大量の荷物を抱えていて、熟れた果物の匂いがした。

 橋に欄干は備わっていない。弱いとはいえない風が盛んに吹き抜けている。通行者は、幅広とはいえない板の上を、一足ごとにバランスをとりながら、慎重に進まなければならない。

「さあ、マトリ」

 母親が促したが、娘の顔は恐怖一色だ。袂から一歩も動くことができない。

「どうしたの。何で渡らないの?」
「……怖いよ。渡るの、怖い」

 娘の表情も声も、今にも泣き出しそうだ。

「行きは平気な顔して渡っていたじゃない。大丈夫よ」
「でも、荷物持ってるし、風も強くなったし……」
「平気、平気。この程度で落ちることなんてないから。ママが言うんだから、絶対に大丈夫。さあ、渡りましょう」

 荷物で両手がいっぱいなので、母親は顎をしゃくって促す。しかし娘は俯いた。母親の表情が変わった。

「マトリ! ふざけている場合じゃないでしょう! 早く渡って!」
「荷物、ちょっとずつ持って行こうよ。橋の前に置いておいて、少しずつ家まで運んで……」
「駄目! それをやって、買ったものを盗まれた人が前にいたでしょう。みんなで苦労して手に入れたお金、あなた一人のワガママで無駄にするつもり?」
「だって、だってぇ……」

 娘はとうとう泣き出した。母親の顔つきがさらに険しくなる。

「いいから渡りなさい! 早く!」
「嫌だぁ!」

 母親も強情なら、娘も強情といった風で、埒が明かない。

(やれやれ、妙なことになった)

 茂みの中で、リズは溜息をついた。
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