キスで終わる物語

阿波野治

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一日目

迎えの車

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 ショートヘアを春風になびかせながら、陽奈子はカフェ『indigo』前の歩道に佇んでいる。
 この場所で待ち始めてから、そろそろ二十分が経とうとしていた。約束の時間からは十五分が過ぎた計算になる。
 迎えの車はまだ来ない。
 百八十センチに届こうかという長身の女性が、ウサギのぬいぐるみを胸に抱いているというミスマッチに、通り過ぎる通行人はことごとく陽奈子に注目した。しかし彼女自身は、彼らからの視線は気にも留めない。待ち合わせ場所に迎えの車が来ないこと、ただそれだけを気にしている。

「お迎え遅いね、与太郎くん」

 陽奈子は肩にかけていたスポーツバッグを足元に下ろし、ウサギのぬいぐるみに話しかけた。
 灰色の体毛。右耳は中程で折れて垂れ下がり、左耳の付け根には真っ赤なリボンが結ばれている。口がへの字に曲がっているせいで、表情はとぼけているように見え、どことなく頼りなげだ。 
 当然のことながら、与太郎は返事をしない。
 そんなことはお構いなしに、陽奈子は自らが発したい言葉を発する。

「せっかくお洒落なカフェがあるんだから、中で待つようにすればよかったのに。ていうか、待ち合わせ場所、ここで合ってるよね?」

 店の看板を振り返る。『indigo』の六文字は何度見ても変わらない。
 神崎琴音は電話で、『K町の公民館の隣にある、インディゴというカフェの前で待て』という指示を下した。「インディゴ」という名前のカフェは、もしかするとK町内に他にもあるかもしれないが、公民館に隣接している店はここだけのはずだ。

「待ち合わせ場所は間違っていないと思うんだけど――」

 迎えは来ない。 
 小柳家への携帯電話の持ち込みは禁止されているため、持参していない。従って、神崎琴音に連絡を入れることはできない。現金も同様だから、公衆電話を見つけても電話をかけられない。自動販売機の下に転がった小銭を掻き集めたとしても、陽奈子が現在いる界隈からは公衆電話は絶滅している。
 連絡をとるならば、他人に頼るしかない状況だが、それも大げさだという気がする。

「与太郎くん、どうしようか」

 再び話しかけた直後、道路の彼方に一台の車が見えた。遅くも速くもない速度で、陽奈子がいるほうへと走ってくる。
 車は陽奈子の目の前の路肩に停まった。赤いボディの軽自動車だ。
 運転席のドアが開き、運転手がアスファルトの路面に降り立つ。朝の日差しを浴びて、後頭部で一まとめにされた金髪が煌めいた。
 女性だ。二十代前半だろうか。男性的な雰囲気も微かに感じられる、大人びた目鼻立ちで、表情は穏やかだが凛々しい。スーツベストを着ていて、パンツスタイルだ。
『indigo』前に佇む陽奈子の姿を見つけると、女性は口元を少し緩めた。陽奈子は与太郎を胸に抱き直した。ブーツを鳴らして歩み寄ってくる。

「あなたが国木田陽奈子さん?」

 頷くと、女性は表情を大きく綻ばせた。凛々しかった顔が、人懐っこい笑顔へと一変した。

「遅れてしまってごめんなさい。会えて嬉しいわ。小柳家の専属運転手を務めている、荒木弥生です。よろしく」

 女性――荒木弥生は握手を求めてきた。与太郎を左腕一本で持ち、空いた右手を差し出す。弥生はその手をしっかりと握り、外国人のように強くシェイクした。

「国木田さんって背が高いんだね。なんセンチあるの?」
「百七十九ですけど」
「あと一センチで百八十か。体力ありそうだし、頼りになりそうね」

 視線が一気に降下し、陽奈子の胸に落ちる。

「もう一つ質問。そのウサギさんは何者?」
「与太郎くんです」
「与太郎くん?」
「この子の名前。簡単に言えば、あたしの友達みたいなものです。バッグが荷物でいっぱいになっちゃったので、こうして持ち運んでいるんです」
「あ、そうなんだ」
「ぬいぐるみの持ち込みは禁止じゃなかった、ですよね」
「うん、大丈夫。駄目なのは電子機器とお金だけだから」

 与太郎の頭をあやすようにぽんぽんと叩き、注目を陽奈子の顔に戻す。

「大人しそうな子っていう印象を琴音は持ったみたいだけど、なんて言うか、あなたって凄く個性的な人なのね。まだ少ししか話していないけど――うん、そんな気がする。立ち話もなんだから、車に乗って。あなたともっと話をしてみたいな」

 陽奈子に背を向け、運転席へと向かう。

「乗るのは助手席ね。荷物は後部座席にお願い」

 運転席のドアが開く音が聞こえた。陽奈子は後部座席左側のドアを開け、バッグを座席の上に置いた。運転席のドアが閉まる。少し迷ったが、与太郎を胸に抱いたままドアを閉めた。助手席に乗り込む。

「あれっ、連れてきたの」

 弥生は笑った。嘲りの色が含まれていない、明るい笑いだ。通行人とは違う反応に、陽奈子は心が少し楽になった。この人は悪い人じゃない。信頼できる人だ。そう思った。
 車内は余計なものが一切置かれておらず、片づいていて清潔な印象だ。弥生の手が、慣れた動きでカーステレオを操作すると、控え目な音量で音楽が流れ出した。聞こえてきたのは、若い男性の声。歌は日本語だが、テンポが速いので外国語に聞えなくもない。

「それじゃあ、出発するね」

 双方のシートベルトが締まったのを合図に、車が走り出した。 
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