キスで終わる物語

阿波野治

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六日目

短い夢

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 時刻が正午を回った直後、部屋のドアがノックされた。陽奈子は心身を強張らせたが、警戒は不要だとすぐに分かった。食欲をそそる匂いが漂ってくるのだ。
 ドアを開けると、訪問者は弥生だった。いくつかの食器が載ったトレイをウエイトレスのように掌に載せている。表情は穏やかだ。

「お昼ご飯、持ってきたよ。お腹空いてるでしょ」

 トレイは安楽椅子の座面に置かれた。ミートソースグラタンにサラダにスープ、という献立だ。
 弥生は立ち去ろうとはしない。目が合うと、どうぞ、というふうに右手で合図を送る。陽奈子は安楽椅子のもとまで行き、いくらか居心地の悪さを感じながらも食事を始める。食べている間、弥生が話しかけてくることはない。

「陽奈子に下った処分なんだけど」

 弥生が口を開いたのは、皿が全て空になったタイミングでのことだった。

「まだ華菜から話を聞いている段階だから、結論が出るまではもうしばらくかかると思う。いつまでかかるか分からないけど、とりあえず夕方くらいまで、陽奈子は部屋でゆっくりしていればいいわ。昨夜はあまり寝られなかったのなら、一眠りするのもいいかもね。眠れなくても、横になっているだけでも体は休まるだろうし」
「……そっか。そういうことなら、弥生に頼みたいことがあるんだけど」

 弥生の顔に緊張が走った。

「与太郎を壊した理由を、華菜に訊いてきてくれないかな。本当はあたしから訊かなくちゃいけないし、ゆくゆくはそうしようと思っているんだけど、今は琴音の命令に背くわけにはいかないから」
「華菜の動機についてなら、処分を言い渡すときに琴音から説明があると思うけど」
「それは分かってる。でも、琴音に厳しく詰問されたら、どうしても仕方なく話す感じになっちゃうと思うんだ。だから弥生には、あたしが『与太郎を壊した理由をどうしても知りたい』とあたしが言っていたと華菜に伝えた上で、理由を訊き出してほしいんだ」
「なるほど。――分かった、任せておいて」

 柔らかいながらも真剣な表情が顔を浮かぶ。陽奈子の表情も少し和らぐ。

「また来るから、陽奈子はゆっくり休んでね。じゃあね」

 弥生はトレイを手に部屋を去った。
 これで正真正銘、やるべきことがなくなってしまった。

 ベッドに大の字に寝転がる。白い天井と睨み合いながら、薬にならない思案に耽るのでも、弥生の勧めに従って午睡と洒落込むのでも、どちらでも構わないという心境だった。
 朝から続く一連の騒動のせいで、眠気はすっかり鳴りを潜めていたが、ベッドの上に体を横たえたことで、体のほうが眠らなければならないという義務感に囚われたらしく、意識が次第に曖昧になっていく。
 夢と現との境界を長い間さ迷っていたが、やがて眠りに落ちた。

*

 夢を見た。
 潜在意識が荒唐無稽な寸劇を繰り広げるもの。過去の体験がそっくりそのまま、あるいはいくらか脚色された上でリプレイされるもの。夢には二種類あるが、陽奈子が見たそれは後者に属していた。

 幼い陽奈子が居間で炬燵にあたっている。髪の毛は胸まで伸び、背は高くない。六歳のころの陽奈子だ。
 陽奈子の対面に、彼女の父親が座っている。レンズの大きな眼鏡をかけ、どことなく頼りなげな、虐めたくなるような顔をしている。視聴していた歌番組が終了したのを機に、父親はテレビを消し、娘に向かって言った。

「陽奈子ちゃん。いきなりだけど、パパね、四月から札幌に単身赴任することが決まったんだ」
「タンシンフニン? サッポロ? なんのこと?」

 陽奈子は首を大きく傾げる。

「パパは四月から、陽奈子ちゃんやママとは別の家で暮らさなければいけなくなっちゃったんだ。今はパパと毎日会えているけど、四月からは全然会えなくなるんだよ。寂しいね、陽奈子ちゃん」
「ううん、べつに。だって、ママはいっしょだもん」
「あらら……」

 娘の無邪気な反応に、父親はわざとらしくずっこけてみせ、苦笑を浮かべる。

「寂しくなかったとしても、パパと当分会えなくなることには変わりないからね。そこで今日は、陽奈子ちゃんにこんなものを用意しました」

 父親は傍に置いてあった箱を引き寄せ、中からなにかを取り出して炬燵机の上に置いた。左耳に真っ赤なリボンを巻き、口をへの字に曲げた、どこか間抜けな顔をしたウサギのぬいぐるみだ。

「これ、パパからのプレゼント。パパが家にいない間、パパだと思って大事にしてくれると嬉しいな」
「このウサギさん、ひなこにプレゼントしてくれるの? たんじょうびでもないのに?」

 父親が頷くと、陽奈子は顔を綻ばせてぬいぐるみを手にした。きつく胸に抱き締め、愛おしそうに頬ずりをする。命のあるもののようにぬいぐるみと触れ合う我が子を、父親は慈しむような眼差しで見守っている。

「パパ! このウサギさんのなまえ、きめたよ」
「なんていう名前?」
「よたろう、っていうんだ。どう? かっこいいでしょ?」
「与太郎って確か、愚か者っていう意味じゃなかったっけ。本当にそれでいいの?」
「うん、いいの。よたろうは、おろかものだからよたろうなんじゃなくて、よたよたとしてるからよたろうなんだから」
「そっか。陽奈子ちゃん、与太郎くんを大事にしてあげるんだよ」
「うん!」

 十二年前の自分が元気よく返事をして、陽奈子の夢の幕は下りた。
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