キスで終わる物語

阿波野治

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六日目

フェンスの向こう

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 日付が変わった。
 陽奈子はスポーツバッグを手にドアに歩み寄り、耳を宛がった。物音は聞こえてこない。人気も感じない。
 音を立てないようにドアを開け、廊下の様子を覗う。人影はない。人の気配も途絶えている。
 バッグの持ち手を握り直し、部屋を出る。
 暗く静かな廊下を、靴音を立てないように気をつけながら進む。人が眠っている部屋の前を通過するときは鼓動が少し速まったが、何事もなかった。廊下は真っ暗だが、通り慣れているのでまごつくことはない。

 琴音も、弥生も、誰もあたしを理解してくれない。あたしの味方になってくれない。あたしを悪者にしたいなら、好きにすればいい。こんな家、あたしのほうから出て行ってやる。
 一時期は、琴音か弥生の胸倉を掴んで、そう罵倒したい気持ちでいっぱいだった。しかし今では、その激しさが嘘のように心が落ち着いている。喜びも、怒りも、悲しみもない。静まり返った心に様々な思いが流れ込んでくる。

 千紘の料理を食べられなくなるのは惜しいな。話す機会もなかったし、そういう意味でも悔いが残る。
 置き手紙くらいして残しておけばよかったかな。ミアとかノアとか、あたしによくしてくれた子もたくさんいるのに。
 まさか野生の動物に襲われないとは思うけど、一人で夜の山道を歩くのは嫌だなぁ。車で三十分くらいかかったような気がするけど、歩いたらどのくらいかかるんだろう。
 急に帰ったりしたら、お母さんはどんなリアクションをするだろう。怒るかな。呆れるかな。嘆くかな。悲しむかな。

 想念は総じて、小柳家を去ることへの未練に通じていた。もっともそれらは、陽奈子に自室へ引き返すことを強いるほど、強く心に訴えかけてくるわけではない。

 玄関に辿り着いた。
 ドアを開閉するとベルが鳴る。通るのはできれば避けたいが、選択肢は他にない。
 最大限慎重にドアを開いたつもりだったが、それでも微かにベルの音が鳴った。冷や汗が噴き出した。どうにか体が通るだけの隙間を作り、体を外に出す。開けたとき以上の慎重さを心がけてドアを閉めたが、やはりベルは音を奏でた。
 空には満月が浮かび、夜にしては明るい。花の香りが濃密に漂っている。花は夜でもこんなに強く匂いを放つものなのかと、陽奈子は意外に思った。それに少し遅れて、初日、同僚たちと花壇で昼食を共にしたときのことを思い出し、胸が締めつけられた。
 でも、行かなければ。
 ドアに耳を宛がい、中から物音が聞こえてこないことを確認し、歩き出した。

 小道の中間地点まで進んだところで、足を止めて振り返る。見納めに、六日間過ごした屋敷を目に焼きつけておくつもりだったのだが、思いがけない光景を目撃した。一室だけ、窓から明かりが漏れている部屋があるのだ。
 考えてみれば、十二時ちょうどという消灯時間は、陽奈子と華菜との間で勝手に決めたルールに過ぎない。それより遅い時間に床に就く者も、当然のことながらいるだろう。
 見つからないうちに、さっさと出て行こう。
 顔の向きを戻し、足を速めた。

 門の前まで来て、もう一度振り返ったときには、部屋の明かりは消えていた。
 門扉に手で触って確かめてみたが、案の定、施錠されている。

「さーて、どうするか」

 門扉並びにフェンスの高さは、二メートルを軽く超えている。台になるようなものは周囲には見当たらない。飛びつくか、よじ登るか。二択になりそうだが、どちらにせよ、重たいバッグを抱えてこの高さを乗り越えるのは、長身で、体力にそれなりに自信がある陽奈子でも難しそうだ。だからといって、バッグを置いていくわけにもいかない。バッグを持たずにフェンスに登ったとしても、バッグを回収する方法が思いつかない。

「……よし」

 フェンスから一旦距離を置き、駆け寄る。ギリギリまで近づいてジャンプし、目いっぱい両手を伸ばす。フェンスの最上部に指をかけたかったのだが、届かない。両足から地面に着地したが、その際にバランスを崩して後方によろめき、尻餅をついてしまう。
 両手を地面についた瞬間、右掌に痛みが走った。尖った石の上に手を置く形になってしまったらしい。患部を直視すると、人差し指の付け根に近い場所が一センチほど切れ、傷の小ささが嘘のように勢いよく血が流れている。
 華菜が鼻血を流していた光景が脳裏に甦る。
 不快感や怒りが再燃することはない。悲しみ、虚しさ、寂しさ。それらを混ぜ合わせたような、それでいてそれらのどれでもない感情が、静かに胸に広がっていく。

「……なにやってるんだろう、あたし」

 自分が情けなくなったが、今は応急処置が先だ。スポーツバッグから適当な衣類を取り出し、傷口に宛がう。数分の間じっとしていると、呆気なく流血は止まった。
 試しに五指を動かしてみると、痛みが鋭く走る。右手に力を入れるのは難しそうで、仮にフェンスの頂に指をかけられたとしても、体を引っ張り上げられそうにない。

「仕方ない」

 他に乗り越えられそうな場所がないか、探そう。
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