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少女と物語
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旧校舎をあとにしたわたしたちは、校舎の屋上へと移動した。
わたしはフェンス越しに地上を見下ろし、平間さんはフェンスにもたれて空を仰ぐ。高所特有の強い風が、心身の高揚を強いられる体験をしたわたしには快かった。横顔を見た限り、平間さんも同じ気持ちでいるらしい。
「増田、さっきはありがとう」
おもむろにわたしに向き直り、平間さんは言った。
「最初はただ、脅して言うことを聞かせるだけのつもりだったんだけど、頭に血が昇っちゃって、危ないところだった。増田が止めてくれていなかったら、過ちを繰り返していたかもしれない」
「お礼なんていらないよ。何事もなく終わったんだから、それで充分だよ」
「意地悪な質問をするけど、増田は福永に痛い目に遭ってほしいと思っていた? わたしに福永を殴ってほしいと、本心では思っていた?」
「……どうなのかな。心の底ではそう思っていたかもしれない。でも、矛盾しているようだけど、傷つけられても傷つけちゃ駄目っていうのは本心だよ。……あのね」
少し躊躇ったが、思い切って打ち明ける。
「わたし、福永さんをモデルにした人物が登場する小説を書いて、その人物を作中で酷い目に遭わせたことがあるの。現実世界でやり返す勇気がないから、架空の世界で福永さんに復讐をした、というわけ。書き上げた直後はすっきりしたけど、時間を置いて読み返してみたら、自分が卑怯な真似をしていたことに気がついて、凄く嫌な気持ちになった。だから、物語の世界で人を傷つけるのはもう止めようって、その時に思ったの。自己満足だとか、ご都合主義だとか言われても構わないから、誰にも迷惑をかけない小説を書こうって」
鏡を見てみるまでもなく、顔に笑みが浮かんでいるのが分かった。強がりや自虐に起因するものではない、心からの笑みが。
「誰かから傷つけられても、誰かを傷つけちゃ駄目。物語の世界でも、現実世界でも。その考えが正しかったことが今日の一件で証明されて、心からよかったって思ってる」
「心からよかった、か」
しかし平間さんは納得がいかないらしい。
「私にとっては間違いなくよかったと思う。でも、肝心の増田はどうなの? 今日の一件がきっかけで、福永たちが増田にちょっかいをかけるのを止める、ということには多分ならないよ? やられっぱなしでも増田はいいの?」
「うん、いいの。やり返したことで、やり返す前よりも嫌な思いをするくらいなら、我慢する方がずっといい」
「……増田」
「心配しないで。わたし、今日からまた小説を書こうと思っているの。書けるかどうかはともかく、ペンを握ってノートに向かい合おうかなって。辛い日々が続く時こそ、打ち込めるものが必要だと思うし、打ち込めるものさえあれば、辛い日々も乗り越えられると思うから」
重大な事実に気がついたかのような表情を平間さんは見せた。それはすぐさま苦笑に変わる。
「打ち込めるもの、か……。私、無趣味なんだよね。だから中二の時にあんなことになったのかな」
「そういうわけではないと思うけど……。でも、趣味は持っておいて損はないと思う」
「なにかあるかな、私にでもできそうなこと」
「スポーツなんてどう?」
「向いてないよ。体が大きいだけで、運動神経は大してよくないから」
「じゃあ、小説を書くっていうのは?」
「それ、本気で言ってるの? 頭を使うのは、スポーツ以上に無理だ」
「そんなことないよ。書くことって、メールを打つのなんかも含めれば、みんな毎日少しはやっているでしょ。その技術を応用すればいいだけだから、簡単だよ」
「簡単なはずがないだろう。増田にとってはそうなのかしれないけど」
「でも、平間さんのメールの文章、凄く上手だよ。簡潔で、分かりやすくて」
「それは単に難しい文章が書けないだけだ。文才があるわけでは――」
言葉のキャッチボールは延々と続く。会話が弾んでいるから、平間さんの表情は柔らかく、わたしの心は晴れ渡っている。
平間さんと過ごす時間は快い。彼女が隣にいない時間は、物語が私を支えてくれるだろう。この二つさえあれば、どんな苦難も乗り越えていける気がする。
「美咲」
唐突に、しかも初めての呼び名で呼ばれて、わたしの体は緊張に包まれる。それを解きほぐそうとするかのように、平間さんは――晶は、彼女らしい、柔和な微笑を満面に湛えた。
この人なら身を任せても大丈夫だ。
そう確信し、目を瞑った。晶の匂いがわたしに近づいた。
わたしはフェンス越しに地上を見下ろし、平間さんはフェンスにもたれて空を仰ぐ。高所特有の強い風が、心身の高揚を強いられる体験をしたわたしには快かった。横顔を見た限り、平間さんも同じ気持ちでいるらしい。
「増田、さっきはありがとう」
おもむろにわたしに向き直り、平間さんは言った。
「最初はただ、脅して言うことを聞かせるだけのつもりだったんだけど、頭に血が昇っちゃって、危ないところだった。増田が止めてくれていなかったら、過ちを繰り返していたかもしれない」
「お礼なんていらないよ。何事もなく終わったんだから、それで充分だよ」
「意地悪な質問をするけど、増田は福永に痛い目に遭ってほしいと思っていた? わたしに福永を殴ってほしいと、本心では思っていた?」
「……どうなのかな。心の底ではそう思っていたかもしれない。でも、矛盾しているようだけど、傷つけられても傷つけちゃ駄目っていうのは本心だよ。……あのね」
少し躊躇ったが、思い切って打ち明ける。
「わたし、福永さんをモデルにした人物が登場する小説を書いて、その人物を作中で酷い目に遭わせたことがあるの。現実世界でやり返す勇気がないから、架空の世界で福永さんに復讐をした、というわけ。書き上げた直後はすっきりしたけど、時間を置いて読み返してみたら、自分が卑怯な真似をしていたことに気がついて、凄く嫌な気持ちになった。だから、物語の世界で人を傷つけるのはもう止めようって、その時に思ったの。自己満足だとか、ご都合主義だとか言われても構わないから、誰にも迷惑をかけない小説を書こうって」
鏡を見てみるまでもなく、顔に笑みが浮かんでいるのが分かった。強がりや自虐に起因するものではない、心からの笑みが。
「誰かから傷つけられても、誰かを傷つけちゃ駄目。物語の世界でも、現実世界でも。その考えが正しかったことが今日の一件で証明されて、心からよかったって思ってる」
「心からよかった、か」
しかし平間さんは納得がいかないらしい。
「私にとっては間違いなくよかったと思う。でも、肝心の増田はどうなの? 今日の一件がきっかけで、福永たちが増田にちょっかいをかけるのを止める、ということには多分ならないよ? やられっぱなしでも増田はいいの?」
「うん、いいの。やり返したことで、やり返す前よりも嫌な思いをするくらいなら、我慢する方がずっといい」
「……増田」
「心配しないで。わたし、今日からまた小説を書こうと思っているの。書けるかどうかはともかく、ペンを握ってノートに向かい合おうかなって。辛い日々が続く時こそ、打ち込めるものが必要だと思うし、打ち込めるものさえあれば、辛い日々も乗り越えられると思うから」
重大な事実に気がついたかのような表情を平間さんは見せた。それはすぐさま苦笑に変わる。
「打ち込めるもの、か……。私、無趣味なんだよね。だから中二の時にあんなことになったのかな」
「そういうわけではないと思うけど……。でも、趣味は持っておいて損はないと思う」
「なにかあるかな、私にでもできそうなこと」
「スポーツなんてどう?」
「向いてないよ。体が大きいだけで、運動神経は大してよくないから」
「じゃあ、小説を書くっていうのは?」
「それ、本気で言ってるの? 頭を使うのは、スポーツ以上に無理だ」
「そんなことないよ。書くことって、メールを打つのなんかも含めれば、みんな毎日少しはやっているでしょ。その技術を応用すればいいだけだから、簡単だよ」
「簡単なはずがないだろう。増田にとってはそうなのかしれないけど」
「でも、平間さんのメールの文章、凄く上手だよ。簡潔で、分かりやすくて」
「それは単に難しい文章が書けないだけだ。文才があるわけでは――」
言葉のキャッチボールは延々と続く。会話が弾んでいるから、平間さんの表情は柔らかく、わたしの心は晴れ渡っている。
平間さんと過ごす時間は快い。彼女が隣にいない時間は、物語が私を支えてくれるだろう。この二つさえあれば、どんな苦難も乗り越えていける気がする。
「美咲」
唐突に、しかも初めての呼び名で呼ばれて、わたしの体は緊張に包まれる。それを解きほぐそうとするかのように、平間さんは――晶は、彼女らしい、柔和な微笑を満面に湛えた。
この人なら身を任せても大丈夫だ。
そう確信し、目を瞑った。晶の匂いがわたしに近づいた。
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