僕の輝かしい暗黒時代

阿波野治

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 レイが帰ると、僕はただちに学習机に向かった。
 天板の上の問題集にはいったん脇にどいてもらう。誕生したスペースに、引き出しから取り出した大学ノートを広げる。不登校を三回も経験した僕は、買ったはいいが使っていない文房具類を大量に所有している。今取り出した一冊は、封こそ開けているものの、ページを開いたことすらない新品同然の代物だ。

 白。
 圧倒的な白。
 それが始めから終わりまで続いていく。
 そこに最初の一文字を刻む、ということ。
 なにから始めればいいのだろう? 可能性のあまりの膨大さに、ペンを握る手は硬直する。
 それでいて、途方に暮れてはいない。

 書きたい。なにかを書きたい。気持ちが前のめりだ。怖い気もする。でも、それを乗り越えたい。
 考えに考えた。ちゃんとした答えは一向に見えてこず、逸る気持ちが優柔不断な自分に見切りをつけた。文字を、刻んだ。
 言葉があふれ出した。

 夢中で書いた。書き殴ったといってもいい。文法はめちゃくちゃだったと思う。文章の体をなしていたかどうかさえも怪しい。下手な文章だ、めちゃくちゃな文章だという自覚は、ペンをしゃにむに動かしているさなかからあったように思う。
 それでも書いた。こまかいことは気にせずに書いて、書いて、書きまくった。感情が突き動かすのだ。放っておいても手が勝手に動くのだ。

 未体験の、得も言われぬ快感に、身を任せた。書いても、書いても、吐き出したい言葉が湧いた。気持ちが切れなかった。
 必死だった。夢中だった。楽しいとも少し違う、僕の辞書には記載されていない感覚を僕は体験し、体感していた。
 止めようとは思わない。体力が尽きるか、吐き出したいものを吐き出し尽くすまで、ずっとこうしていたかった。一つの作業にこんなにも集中できた事例は、記憶を隅々まで探索しても見つけられない。

 執筆は、母親が「夕食の支度ができた」と伝えにきたことで中断を余儀なくされた。
 正直に言ってかなりむかついた。しかし、懸命に理性を働かせて怒りを抑えこみ、すぐさまダイニングへ向かった。真の意味で物事にのめりこんだ人間は、感情に呑まれるのではなく、沈着冷静に最善の行動をなぞれるものなのだと、このとき初めて知った。

 食事の席では、習慣を通り越して癖になった感がある父親の小言を浴びたが、耐え抜いた。腹は立ったし嫌気も差したが、食器を床に叩きつけることも、父親に殴りかかることも、いきなり怒鳴り声を上げることもしない。部屋に戻り次第再開できる、書くという行為。それに意識を置いていれば、不意打ちで吹きつけた風や強くぶつかってきた風にも、反射的に足を踏ん張れ、飛ばされることは決してなかった。具体的にこれが書きたいというよりも、あの時間あの空間に一秒でも早く戻りたかった。

 夕食が済み次第自室に戻ったが、残念ながら執筆意欲は復活しなかった。火が完全に消えてしまったために、奮い立たせたくても奮い立たせる余地がなかったのだ。
 落胆したが、手の打ちようがないと理解していたので、速やかに気持ちを切り替えられた。途中退席した時点でこうなる運命は免れないと薄々悟っていたからこそ、簡単に諦めがついたともいえる。

 気を取り直して、書いたばかりの文章を読み返してみる。
「……ひどいな」
 とても文章と呼べるような代物ではない。あまりにもお話にならなさすぎて、苦笑いすらもこぼれない。それでいて、なにものにも忖度せずに感情をぶつける勢いが、迸るような迫力が、清々しいと感じた。

 けっきょく、こんなにも情熱的に文章をつづったのは、その日が最初で最後だった。
 ただ、さびしがる必要はどこにもない。
 この経験のおかげで、懸案だった目標が定まったのだから。
 進学か就職かの問題に決着がついたのだから。
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