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初日 その8
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入浴は一人で手早く済ませた。
姫はリビングでテレビを観つづけている。わたしはキッチンでオレンジジュースをグラスに注ぐ。大好きでよく買っている、とびきり甘いオレンジジュースを。
「ナツキ、いいにおいがする」
ジュースのパックを冷蔵庫にしまった直後、思いがけず姫が話しかけてきた。
「ん? 匂い?」
「花みたいなにおい」
「ああ、シャンプーとボディーソープね。オレンジジュースのことを言っているのかと思った。姫も飲む?」
「いらない。のど、かわいてないから」
「飲みたくなったら自由に飲んでいいよ。飲み物はみんな姫の手に届く場所に置いてあるから。飲むときはコップに入れて――いや、姫なら直接でもいいかな。間接キスでも全然オッケー」
半分ほど入った中身を一気に飲み干し、洗い桶に入れる。いつもは翌朝、食事が終わったあとで洗うのだが、今晩はただちにスポンジを手にした。洗剤を少量含ませ、グラスをこする。
「お風呂、やっぱり姫も入りたくなった? 一人で入るのが嫌なら、わたしがいっしょに入ってもいいよ。どうする?」
「きょうはいい。入らない」
「もしかして、遠慮してるの?」
洗剤を洗い流しながら尋ねたが、返事はない。水量は控えめだから、わたしの声は届いているはずだ。現在放送されているのは、過疎化が進む村の日常を追ったドキュメンタリー番組。五・六歳の少女の興味を惹く内容ではない。
『もしかして、体が機械でできているから、濡れると壊れてしまうとでも思っているの?』
そんな冗談が喉元まで出かかったが、思い留まる。言葉を呑みこんだ気配が伝わったのか、姫が肩越しにわたしを一瞥した。
君は自分が人間だと信じて疑っていないが、実際はアンドロイドだ。機械の体、人工の心の持ち主であって、生身の人間とは似て非なる存在だ。
そのような、アイデンティティを根幹から覆すような指摘をしたとしても、パニックを起こさずに処理できるようにプログラムされている。そんな大意の説明が、姫人形販売サイトのどこかに記載されていた。
したがって、機械だから云々という冗談を言ってもなんの問題もないはずだが、口にするのはやはり抵抗がある。姫はあまりにも人間らしすぎるし、わたしはそもそも、姫には人間のつもりで接すると決めているのだから。
音を立てて蛇口を閉め、寝室まで行く。本来は応接間として使うことを想定された六畳の和室だが、使い道がないまま放置していて、姫が来るのを機に片づけて活用することにした一室だ。不要な家具などは全て、物置部屋を中心とする他室に移動させてあるので、がらんとしていて殺風景。いかにも寝るためだけに使う部屋、という印象だ。
押入れから出した布団を畳の上に敷きながら、今日という一日を振り返ってみる。
同じ空間にいながら、片や携帯電話をいじり、片やテレビを視聴するだけという時間の使いかたは、大いに反省の余地がある。ただ、姫もわたしもおおむねリラックスして過ごせたし、会話もあまりぎこちなくはなかった。母親の電話の件を引きずらずに済んだのは、間違いなく姫の功績だ。
明日はきっと、互いにとって、今日よりも素晴らしい日になる。そう期待を持てる一日だった。
姫はリビングでテレビを観つづけている。わたしはキッチンでオレンジジュースをグラスに注ぐ。大好きでよく買っている、とびきり甘いオレンジジュースを。
「ナツキ、いいにおいがする」
ジュースのパックを冷蔵庫にしまった直後、思いがけず姫が話しかけてきた。
「ん? 匂い?」
「花みたいなにおい」
「ああ、シャンプーとボディーソープね。オレンジジュースのことを言っているのかと思った。姫も飲む?」
「いらない。のど、かわいてないから」
「飲みたくなったら自由に飲んでいいよ。飲み物はみんな姫の手に届く場所に置いてあるから。飲むときはコップに入れて――いや、姫なら直接でもいいかな。間接キスでも全然オッケー」
半分ほど入った中身を一気に飲み干し、洗い桶に入れる。いつもは翌朝、食事が終わったあとで洗うのだが、今晩はただちにスポンジを手にした。洗剤を少量含ませ、グラスをこする。
「お風呂、やっぱり姫も入りたくなった? 一人で入るのが嫌なら、わたしがいっしょに入ってもいいよ。どうする?」
「きょうはいい。入らない」
「もしかして、遠慮してるの?」
洗剤を洗い流しながら尋ねたが、返事はない。水量は控えめだから、わたしの声は届いているはずだ。現在放送されているのは、過疎化が進む村の日常を追ったドキュメンタリー番組。五・六歳の少女の興味を惹く内容ではない。
『もしかして、体が機械でできているから、濡れると壊れてしまうとでも思っているの?』
そんな冗談が喉元まで出かかったが、思い留まる。言葉を呑みこんだ気配が伝わったのか、姫が肩越しにわたしを一瞥した。
君は自分が人間だと信じて疑っていないが、実際はアンドロイドだ。機械の体、人工の心の持ち主であって、生身の人間とは似て非なる存在だ。
そのような、アイデンティティを根幹から覆すような指摘をしたとしても、パニックを起こさずに処理できるようにプログラムされている。そんな大意の説明が、姫人形販売サイトのどこかに記載されていた。
したがって、機械だから云々という冗談を言ってもなんの問題もないはずだが、口にするのはやはり抵抗がある。姫はあまりにも人間らしすぎるし、わたしはそもそも、姫には人間のつもりで接すると決めているのだから。
音を立てて蛇口を閉め、寝室まで行く。本来は応接間として使うことを想定された六畳の和室だが、使い道がないまま放置していて、姫が来るのを機に片づけて活用することにした一室だ。不要な家具などは全て、物置部屋を中心とする他室に移動させてあるので、がらんとしていて殺風景。いかにも寝るためだけに使う部屋、という印象だ。
押入れから出した布団を畳の上に敷きながら、今日という一日を振り返ってみる。
同じ空間にいながら、片や携帯電話をいじり、片やテレビを視聴するだけという時間の使いかたは、大いに反省の余地がある。ただ、姫もわたしもおおむねリラックスして過ごせたし、会話もあまりぎこちなくはなかった。母親の電話の件を引きずらずに済んだのは、間違いなく姫の功績だ。
明日はきっと、互いにとって、今日よりも素晴らしい日になる。そう期待を持てる一日だった。
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