わたしと姫人形

阿波野治

文字の大きさ
上 下
8 / 91

初日 その8

しおりを挟む
 入浴は一人で手早く済ませた。
 姫はリビングでテレビを観つづけている。わたしはキッチンでオレンジジュースをグラスに注ぐ。大好きでよく買っている、とびきり甘いオレンジジュースを。

「ナツキ、いいにおいがする」
 ジュースのパックを冷蔵庫にしまった直後、思いがけず姫が話しかけてきた。

「ん? 匂い?」
「花みたいなにおい」
「ああ、シャンプーとボディーソープね。オレンジジュースのことを言っているのかと思った。姫も飲む?」
「いらない。のど、かわいてないから」
「飲みたくなったら自由に飲んでいいよ。飲み物はみんな姫の手に届く場所に置いてあるから。飲むときはコップに入れて――いや、姫なら直接でもいいかな。間接キスでも全然オッケー」

 半分ほど入った中身を一気に飲み干し、洗い桶に入れる。いつもは翌朝、食事が終わったあとで洗うのだが、今晩はただちにスポンジを手にした。洗剤を少量含ませ、グラスをこする。

「お風呂、やっぱり姫も入りたくなった? 一人で入るのが嫌なら、わたしがいっしょに入ってもいいよ。どうする?」
「きょうはいい。入らない」
「もしかして、遠慮してるの?」

 洗剤を洗い流しながら尋ねたが、返事はない。水量は控えめだから、わたしの声は届いているはずだ。現在放送されているのは、過疎化が進む村の日常を追ったドキュメンタリー番組。五・六歳の少女の興味を惹く内容ではない。

『もしかして、体が機械でできているから、濡れると壊れてしまうとでも思っているの?』
 そんな冗談が喉元まで出かかったが、思い留まる。言葉を呑みこんだ気配が伝わったのか、姫が肩越しにわたしを一瞥した。

 君は自分が人間だと信じて疑っていないが、実際はアンドロイドだ。機械の体、人工の心の持ち主であって、生身の人間とは似て非なる存在だ。
 そのような、アイデンティティを根幹から覆すような指摘をしたとしても、パニックを起こさずに処理できるようにプログラムされている。そんな大意の説明が、姫人形販売サイトのどこかに記載されていた。
 したがって、機械だから云々という冗談を言ってもなんの問題もないはずだが、口にするのはやはり抵抗がある。姫はあまりにも人間らしすぎるし、わたしはそもそも、姫には人間のつもりで接すると決めているのだから。

 音を立てて蛇口を閉め、寝室まで行く。本来は応接間として使うことを想定された六畳の和室だが、使い道がないまま放置していて、姫が来るのを機に片づけて活用することにした一室だ。不要な家具などは全て、物置部屋を中心とする他室に移動させてあるので、がらんとしていて殺風景。いかにも寝るためだけに使う部屋、という印象だ。

 押入れから出した布団を畳の上に敷きながら、今日という一日を振り返ってみる。
 同じ空間にいながら、片や携帯電話をいじり、片やテレビを視聴するだけという時間の使いかたは、大いに反省の余地がある。ただ、姫もわたしもおおむねリラックスして過ごせたし、会話もあまりぎこちなくはなかった。母親の電話の件を引きずらずに済んだのは、間違いなく姫の功績だ。
 明日はきっと、互いにとって、今日よりも素晴らしい日になる。そう期待を持てる一日だった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

運命の一射 那須与一

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:1

婚約者の義妹に結婚を大反対されています

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:51,662pt お気に入り:5,026

吸い魔狂の館

ホラー / 連載中 24h.ポイント:42pt お気に入り:0

娘を悪役令嬢にしないためには溺愛するしかありません。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:142pt お気に入り:806

緑の指を持つ娘

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:70,234pt お気に入り:1,311

回復力が低いからと追放された回復術師、規格外の回復能力を持っていた。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:14,158pt お気に入り:1,545

あなたの願いが叶いました

emi
ファンタジー / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:1

婚約破棄される悪役令嬢ですが実はワタクシ…男なんだわ

BL / 連載中 24h.ポイント:78pt お気に入り:53

処理中です...