わたしと姫人形

阿波野治

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二日目 その1

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 起床時間は普段よりも少し遅かった。
 隣を見ると、姫はまだ眠りの中にいる。

「姫」
 弱い力で肩を揺さぶると、まぶたが開いた。上体を起こし、大きく口を開けてあくびをする。そうしたあとには、数秒前まで夢の世界にいたのが嘘のように、すっきりした顔をしている。不自然というほどではないかもしれないが、驚くほどスムーズな切り替えだ。
 どこからどう見ても人間にしか見えないが、姫はやはり姫人形らしい。

 のんびりと黒衣をまとう姫を眺めながら、服を買っておきたいと思う。普段着には少し重すぎるし、パジャマも下着兼用の一着だけというのは少なすぎる。

 着替えたあとは、カスタードクリームが入ったロールパンに、甘いオレンジジュースの朝食をとる。

「どう? 美味しい?」
 姫が一口目をかじり、嚥下したのを見計らって尋ねると、パステルピンクの瞳がわたしを見返した。
「あまくて、おいしい」
「気に入ってくれたの? それはよかった」

 昨夜姫が観ていたテレビ番組の話をしながら食事をする。熱心に観ていたので、分析的な意見が聞けるかとも思ったが、述べられたのは擬音語を多用した感想。設定年齢相応の無邪気さに、何度も笑みがこぼれた。
 服を買いに行く予定については、互いが食べ終わるころになって切り出した。

「そのお店って、どこにあるの? 遠い?」
「ううん、歩いて行ける距離。買い物をして、お昼ごはんを食べて、帰る。それでいい?」
 姫は間髪を入れずにうなずいた。

 やがて互いのパン皿が空になった。クリームが付着した指先を舐める仕草は子ネコを連想させ、いつまでも眺めていたくなる愛らしさだ。
 穏やかないい朝だと、しみじみと思う。


* * *


 わたしがこの町に引っ越す前年、現在の自宅から徒歩数分の場所にある木造の長屋で、親子喧嘩の末に母親が娘を刃物で刺す、という事件が起きた。
 母親は四十代。娘は十代。母子家庭だったという。
 肩と腕を数か所刺された娘は、玄関のガラス戸を突き破って屋外へと逃げ出した。戸に鍵がかかっていたため、開錠するよりも早く脱出できると判断して強行突破した、という経緯だったようだ。

 事件後、加害者と被害者がどうなったのかは、わたしには分からない。

 事件現場が近くにあると知ったのは、現在住んでいる家に転居してからのこと。近所の人が噂話をしているのを耳にしたか、マツバさんに教えられたか、そのどちらかだったと思う。
 母親との関係に悩んでいたわたしは、事件に大いに興味を惹かれ、問題の長屋へと足を運んだ。引っ越し翌日の昼下がりだった。近所の小さな公園に咲くソメイヨシノがまだ花を残していたことも、昼食にアロエジャムを挟んだサンドウィッチを食べたことも、はっきりと覚えている。

 玄関の戸は全戸ガラス製。戸が破損し、玄関先にガラスの破片を撒き散らしている部屋は、当たり前だが一戸もなかった。長屋は狭く、日当たりが悪かった。経済的に余裕がない人間が住む家、という印象を受けた。
 東端に位置する部屋の前で、老爺が柄の短い箒で地面を掃いていた。見事な白髪で、七十歳は過ぎているだろう。大家だ、とわたしは直感した。

 事件後に大家が記者からインタビューを受けている模様ならば、一度だけテレビで観たことがある。ただし、映っていたのは首から下で、声には機械で加工が施されていた。
 親子は日ごろから仲がよさそうだった。顔を合わせると必ずあいさつをしてくれた。事件を起こすような人間には見えなかった。
 インタビュアーの質問に対して、大家はそんな笑ってしまうほど月並みな批評を口にしていた。

 老爺が大家にせよ、そうではないにせよ、話しかけても得るものがあるとは思えない。到着して五分も経っていなかったが、踵を返した。
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