わたしと姫人形

阿波野治

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灰島ナツキ その2

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 腹の虫が空腹を訴えた。
 姫が不在、実際の面積よりも広く感じられる寝室で鳴ったその音は、音量のわりに耳障りに響いた。
 情けないような、哀れなような、滑稽なその音を聞いた瞬間、はたと気がつく。そういえば、遊園地内のレストランで食事をして以来、なにも食べていない。
 なにか胃に入れなければ。

 身内から発せられた警告に、わたしは半自動的に従おうとした。しかし、布団を出て、部屋のドアノブに手をかけた瞬間にフリーズしてしまう。
 食料を求めてキッチンへと足を運べば、姫といっしょに買った食料品が視界に映ってしまう。姫が選んだ、菓子パン。姫に喜んでほしくてこっそりかごに入れた、ハート形のホワイトチョコレート。姫と言葉を交わしながら陳列棚から手にとった、オレンジジュース。姫を想起させないものはなに一つないといっても過言ではない。
 今、わたしの隣に敷かれている布団だってそうだ。センターから帰宅した直後は精も根も尽き果てていて、意識することはなかったが――。

 歯を食いしばりながら姫の布団をクローゼットに押しこむ。極力、視界には映さないように。それにまつわる思い出を思い出さないように。
 作業を完了させたときには、肩で息をしていた。ふらつく体を叱咤しながら部屋を出て、トイレで排尿する。顔を洗い、水道水を口にする。部屋に戻って布団に潜りこむ。

「……どうしよう」
 他力本願にしばし待ってみたが、妙案は閃きそうにない。だからといって積極果敢に思索を巡らせれば、ままならない現実に行き当たって胸が苦しくなる。
 寝不足なのが悪いのだ。いったん眠って、目覚めたあとに脳がリフレッシュされていることを期待して――と言いたいところだが、姫の記憶が永遠に失われるまでの時間は、そう長くは残されていない。一分一秒たりとも無駄にはできない。

「母親に……」
 頭を下げるしかない、と口には出したくなかった。それほどまでに、その選択肢を選ぶことへの嫌悪感は激しい。
 そうは言っても、姫の記憶を諦めたくない。悪魔に魂を売り渡してでも死守したい。大切な命のために、死ぬほど嫌なことも我慢するしかない。

「……でも」
 でも、でも、でも。
「ああ、嫌だなぁ……」

 顔を歪めながらも、枕元に置かれた携帯電話を手にする。直後、昨日は母親から電話がかかってきていないことに気がついた。
 すっかり忘れていたが、わたしたちの力関係には微妙な変化が生じていたのだった。姫が我が家にやってきた日、バスルームでの通話で、わたしが母親を一方的に怒鳴りつけた一件がきっかけで。
 あふれんばかりに勇気が漲ったわけではない。母親よりもわたしのほうが力は上だ、という意識が芽生えたわけでもない。ただ、その認識が背中を押してくれたのは事実だ。
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