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『竜水亭』のチャーハンに影響されて、一輝は自作のチャーハンに青ネギをよく使うようになった。
テンションが低い日は、小口切りするのが死ぬほど面倒くさく感じるのだが、休日の今日は多めに刻んでストックしておく余裕すらあった。大学の授業は最初からないから、不登校であることを気に病まなくて済むし、誰からも咎められない。そのことが彼の気分を上向きにさせているのだ。
中途半端に残った食材が多かったので、まとめて使うことにした。にんじん、ピーマン、キャベツ。トーストに使うつもりだったスライスチーズまで投入した。
チーズは手でちぎればいいが、野菜はそうはいかない。火の通りやすさも考慮して、ある程度小さくカットする必要がある。
「面倒くさいなぁ」
ぶつくさ言いながらも、食材を一つ一つ包丁で切っていく。どんな煩わしい作業も、小さな奇跡のように根気強く取り組めるときがたまにあるが、それが今だった。
食材をたくさん使ったので、完成したチャーハンは大盛りになった。一度に全部食べてしまうか、それとも半分だけにしておくか。考えながら食器を出していると、雨が降り出す音が聞こえてきた。
「やばっ。洗濯物、洗濯物」
慌ててベランダに出る。降り込んでいれば取り込むつもりだったが、雨は思いのほか弱く、物干し竿に干した洗濯物はまったく濡れてない。
胸を撫で下ろして部屋に戻ろうとして、西崎家の玄関ドアの前に人がいるのが目にとまった。
一輝の部屋はアパートの端に位置している。ベランダに出てすぐ左の端から身を乗り出せば、西崎家の敷地を囲うフェンスが手の届く場所にある。ベランダからでも庭の全容が苦もなく見渡せる。
そんな位置関係と近さに西崎家はあるから、覗き見をするつもりはなくとも目に入ってしまう。しかし、偶然視界に映った映像の中に、明らかな異常を発見したのは今回が初めてだ。
玄関先にいるのは瀬理だ。膝を抱えて座り込み、その膝に顔をうずめている。
一輝は状況も目的も忘れて瀬理を凝視した。思い出されるのは、昨日道ですれ違ったさいの、暗い雰囲気をまとって俯いていた彼女。
彼女の現状は、昨日の延長線上にあるものなのだろうか? そうとしか思えない。
「ねえ」
一輝は声を発した。もちろん、瀬理に宛ててだ。
膝に埋もれていた顔が緩慢に持ち上がる。少し驚いたような表情。心なしかやつれているように見える。
「そんなところでどうしたの? なにか困ったことでもあるの?」
瀬理は沈黙している。おもむろに、再び俯いた。問いかけにどう答えようかを考えているようでもあるし、見つめられるのが嫌で視線を逸らしただけのようでもある。
余計な真似をしてしまったかもしれない。
今さらのように後悔の念が込み上げてきた。
かもしれないじゃなくて、絶対に迷惑だよな。だって、自分の家でなにをしようが勝手じゃないか。親しい同士ならともかく、俺と彼女は家が隣同士の関係に過ぎないのに……。
『黙っているということは、なにも困っていないということでいいのかな? それなら、よかった。変な場所から声をかけて、ごめんね』
そう告げて屋内に引っ込もうと思ったとき、思いがけない出来事が起きた。
ぐうううう……。
肉食獣のうなり声にも似た音――腹の虫の鳴き声が響き渡ったのだ。
自分の体のことは自分が一番よく分かる。鳴いたのは一輝の腹の中にいる虫ではない。今、彼の近くにいるのは一人だけだから、必然に――。
瀬理は顔をさくらんぼ色に染めて俯いている。
その姿が痛ましくて、いたたまれなくて、一輝はこんな言葉をかけた。
「おなかが減っているんだったら、チャーハン食べる? さっき作ったばかりで、余っているんだ」
瀬理の顔が持ち上がった。頬はまだ赤い。彼女は一輝の目を見返しながら首を縦に振った。
早くも本日二度目となる思いがけない出来事だった。
* * *
準備をしているうちに雨は上がっていた。
「はい、これ」
五分前までは瀬理が座り込んでいた玄関先で、一輝はチャーハンの皿を差し出した。白地にオレンジの花が散った一枚で、一人分の具だくさんのチャーハンがドーム状に盛りつけられている。
「まだ温かいから、温めなくても大丈夫かな。皿は予備のやつで、俺はいっさい使っていないから安心して。洗って返すのが面倒なら、捨てても構わないよ。思い入れもなにもないから」
瀬理は皿を受け取り、小さく頭を下げた。一輝もお辞儀をして去ろうとすると、「あの」と呼び止められた。
「ありがとうございます」
彼女ははにかんだ顔で礼を述べ、ドアの向こうに消えた。
言葉でもお礼を言わなければ失礼だと考えて、わざわざ呼び止めたのだろうか? お礼なら、頭を下げてくれただけでもおつりが出るくらいなのに。
「礼儀正しいんだな、西崎さん。いい子だな……」
一輝は帰宅するとさっそく夕食をとった。具材の組み合わせが違うだけの、いつもと代り映えしない味つけのチャーハンなのに、美味しかった。
とびきり美味しかった。
テンションが低い日は、小口切りするのが死ぬほど面倒くさく感じるのだが、休日の今日は多めに刻んでストックしておく余裕すらあった。大学の授業は最初からないから、不登校であることを気に病まなくて済むし、誰からも咎められない。そのことが彼の気分を上向きにさせているのだ。
中途半端に残った食材が多かったので、まとめて使うことにした。にんじん、ピーマン、キャベツ。トーストに使うつもりだったスライスチーズまで投入した。
チーズは手でちぎればいいが、野菜はそうはいかない。火の通りやすさも考慮して、ある程度小さくカットする必要がある。
「面倒くさいなぁ」
ぶつくさ言いながらも、食材を一つ一つ包丁で切っていく。どんな煩わしい作業も、小さな奇跡のように根気強く取り組めるときがたまにあるが、それが今だった。
食材をたくさん使ったので、完成したチャーハンは大盛りになった。一度に全部食べてしまうか、それとも半分だけにしておくか。考えながら食器を出していると、雨が降り出す音が聞こえてきた。
「やばっ。洗濯物、洗濯物」
慌ててベランダに出る。降り込んでいれば取り込むつもりだったが、雨は思いのほか弱く、物干し竿に干した洗濯物はまったく濡れてない。
胸を撫で下ろして部屋に戻ろうとして、西崎家の玄関ドアの前に人がいるのが目にとまった。
一輝の部屋はアパートの端に位置している。ベランダに出てすぐ左の端から身を乗り出せば、西崎家の敷地を囲うフェンスが手の届く場所にある。ベランダからでも庭の全容が苦もなく見渡せる。
そんな位置関係と近さに西崎家はあるから、覗き見をするつもりはなくとも目に入ってしまう。しかし、偶然視界に映った映像の中に、明らかな異常を発見したのは今回が初めてだ。
玄関先にいるのは瀬理だ。膝を抱えて座り込み、その膝に顔をうずめている。
一輝は状況も目的も忘れて瀬理を凝視した。思い出されるのは、昨日道ですれ違ったさいの、暗い雰囲気をまとって俯いていた彼女。
彼女の現状は、昨日の延長線上にあるものなのだろうか? そうとしか思えない。
「ねえ」
一輝は声を発した。もちろん、瀬理に宛ててだ。
膝に埋もれていた顔が緩慢に持ち上がる。少し驚いたような表情。心なしかやつれているように見える。
「そんなところでどうしたの? なにか困ったことでもあるの?」
瀬理は沈黙している。おもむろに、再び俯いた。問いかけにどう答えようかを考えているようでもあるし、見つめられるのが嫌で視線を逸らしただけのようでもある。
余計な真似をしてしまったかもしれない。
今さらのように後悔の念が込み上げてきた。
かもしれないじゃなくて、絶対に迷惑だよな。だって、自分の家でなにをしようが勝手じゃないか。親しい同士ならともかく、俺と彼女は家が隣同士の関係に過ぎないのに……。
『黙っているということは、なにも困っていないということでいいのかな? それなら、よかった。変な場所から声をかけて、ごめんね』
そう告げて屋内に引っ込もうと思ったとき、思いがけない出来事が起きた。
ぐうううう……。
肉食獣のうなり声にも似た音――腹の虫の鳴き声が響き渡ったのだ。
自分の体のことは自分が一番よく分かる。鳴いたのは一輝の腹の中にいる虫ではない。今、彼の近くにいるのは一人だけだから、必然に――。
瀬理は顔をさくらんぼ色に染めて俯いている。
その姿が痛ましくて、いたたまれなくて、一輝はこんな言葉をかけた。
「おなかが減っているんだったら、チャーハン食べる? さっき作ったばかりで、余っているんだ」
瀬理の顔が持ち上がった。頬はまだ赤い。彼女は一輝の目を見返しながら首を縦に振った。
早くも本日二度目となる思いがけない出来事だった。
* * *
準備をしているうちに雨は上がっていた。
「はい、これ」
五分前までは瀬理が座り込んでいた玄関先で、一輝はチャーハンの皿を差し出した。白地にオレンジの花が散った一枚で、一人分の具だくさんのチャーハンがドーム状に盛りつけられている。
「まだ温かいから、温めなくても大丈夫かな。皿は予備のやつで、俺はいっさい使っていないから安心して。洗って返すのが面倒なら、捨てても構わないよ。思い入れもなにもないから」
瀬理は皿を受け取り、小さく頭を下げた。一輝もお辞儀をして去ろうとすると、「あの」と呼び止められた。
「ありがとうございます」
彼女ははにかんだ顔で礼を述べ、ドアの向こうに消えた。
言葉でもお礼を言わなければ失礼だと考えて、わざわざ呼び止めたのだろうか? お礼なら、頭を下げてくれただけでもおつりが出るくらいなのに。
「礼儀正しいんだな、西崎さん。いい子だな……」
一輝は帰宅するとさっそく夕食をとった。具材の組み合わせが違うだけの、いつもと代り映えしない味つけのチャーハンなのに、美味しかった。
とびきり美味しかった。
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