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惑いの森 前編
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送られてきた地図には、「森を迂回するルートを通るように」との注意書きが記されていた。だが私は、待ち合わせには絶対に遅れるわけにはいかなかった。移動時間を短縮するために、森を突っ切ることは可能だろうか。調査したところ、その広大な森は「惑いの森」と呼ばれ、「ひとたび足を踏み入れると二度と出られない」と言い伝えられていることが明らかになった。
出発当日、昼過ぎに「惑いの森」に到着した私は、立ち入りを規制するゲートはおろか、フェンスすら設置されていないことを知った。それを見て、不明確だった方針が定まった。
その広大さ故に遭難者は後を絶たないが、行方知れずになる者自体はそう多いわけではない。捜索隊の負担を少しでも減らすべく、「ひとたび足を踏み入れると二度と出られない」という大仰な警告文句を掲げている。真相はそんなところだろうか。
「二度と出られない」というのは誇張かもしれないが、迷いやすい場所であることは確かだろう。近道をするつもりが迷子になったのでは本末転倒だ。
「――よしっ」
声を発して気合いを入れ、私は森の中に入っていった。
「惑いの森」に足を踏み入れて二時間ほどが経った。
ほど、という表現を用いたのは、時計が狂ってしまい、使い物にならなくなったからだ。時計と同様、コンパスも駄目になってしまった。詳細は不明だが、どうやらこの森が発する特殊な磁気の仕業らしい。
幾重にも折り重なった巨樹の枝葉が空を遮っている。太陽の位置を手掛かりに方角を把握する道を閉ざされた私は、広大な森をさ迷う一匹の猿も同然だった。
近道をするつもりが迷子になったのでは本末転倒だ。森に入る直前にそう思ったが、情けなくも、その本末転倒な事態に陥ってしまったわけだ。
切り株を見つけ、腰を下ろす。リュックサックを肩から外し、重々しく溜息をつく。
絶対に遅れてはならないにもかかわらず、待ち合わせに遅れてしまうのだろうか。私はこのまま、森の中で野垂れ死にするのだろうか。
無念な思いで胸がいっぱいになり、項垂れた。
刹那、前方で薔薇色の光が煌めいた。
「誰だっ!?」
叫ぶと共に顔を上げた。直後、私の命を脅かす存在である可能性に思い至り、身が竦んだ。逃げなければ。心とは裏腹に、体は金縛りに見舞われたかのように動かない。前方の茂みが揺れ、薔薇色の光の正体が飛び出してきた。
凶暴な生物でも、巨大な生物でもなかった。人間の掌に載る体の大きさ、淡く薔薇色に輝く翅を背中から生やした、一糸まとわぬ姿の少女。妖精だ。幼少時に動物園で二・三度見た記憶があるが、野生の個体をお目にかかったのはこれが初めてだ。
妖精は静かに翅を羽ばたかせ、私の目の前まで移動した。夜空を球状に圧縮したような、黒く円らな瞳で私の顔を見つめる。
「めずらしいね、人間がこの森にいるなんて。……おさんぽ?」
思わず吹き出してしまった。笑いごとではない状況にもかかわらず、唇の隙間から笑いが漏れるのを抑えられない。妖精がブラックユーモアを好む種族だったなんて、この歳になって初めて知った。
妖精がきょとんとした顔を見せていることに気がつき、空咳をする。私は表情を引き締め、ありのままを話した。
「ようするに、遅れちゃいけない待ち合わせをしているから、はやく森から出たいんだけど、迷子になっちゃったから出られないってこと?」
「その解釈で間違っていないよ。……それにしても、まさか森の中でくたばることになるとはね。そんな未来、森に入った時には予想も――」
「わたし、知ってるよ」
息を呑み、妖精の顔を見返す。
「どの道を行けば森から出られるか、わたし、知ってるよ」
「本当か……?」
「ほんとうだよ。わたし、生まれたときからずっとこの森で暮らしてるから、この森の地理にはくわしいの。森の中なら、どこにでも好きな場所へ、迷わずに行ける自信があるよ」
高揚感が込み上げてくる。人間とは、なんと変わり身が早い生き物だろう。希望の光を目にした途端、絶望に打ちひしがれていた自分を過去に追いやるなんて。
「道を知っているなら、私を森の出口まで案内してくれないか。案内してくれるなら、君のためになんでもすると約束する」
「なんでもしてくれるの? 本当に?」
「ああ。私にできることであれば、なんだってするよ」
「なんでも、か。……それじゃあ」
妖精は私から目を逸らし、頬を赤らめた。そうかと思うと、羽ばたいてさらに私に接近し、肩に乗った。重みは全く感じず、仄かに甘い匂いがした。私の耳に唇を近づけ、こう囁いた。
「森の出口に着くまでの間、わたしにお話をして。わたし、人間のことを、あなたのことを、もっともっと知りたいの」
出発当日、昼過ぎに「惑いの森」に到着した私は、立ち入りを規制するゲートはおろか、フェンスすら設置されていないことを知った。それを見て、不明確だった方針が定まった。
その広大さ故に遭難者は後を絶たないが、行方知れずになる者自体はそう多いわけではない。捜索隊の負担を少しでも減らすべく、「ひとたび足を踏み入れると二度と出られない」という大仰な警告文句を掲げている。真相はそんなところだろうか。
「二度と出られない」というのは誇張かもしれないが、迷いやすい場所であることは確かだろう。近道をするつもりが迷子になったのでは本末転倒だ。
「――よしっ」
声を発して気合いを入れ、私は森の中に入っていった。
「惑いの森」に足を踏み入れて二時間ほどが経った。
ほど、という表現を用いたのは、時計が狂ってしまい、使い物にならなくなったからだ。時計と同様、コンパスも駄目になってしまった。詳細は不明だが、どうやらこの森が発する特殊な磁気の仕業らしい。
幾重にも折り重なった巨樹の枝葉が空を遮っている。太陽の位置を手掛かりに方角を把握する道を閉ざされた私は、広大な森をさ迷う一匹の猿も同然だった。
近道をするつもりが迷子になったのでは本末転倒だ。森に入る直前にそう思ったが、情けなくも、その本末転倒な事態に陥ってしまったわけだ。
切り株を見つけ、腰を下ろす。リュックサックを肩から外し、重々しく溜息をつく。
絶対に遅れてはならないにもかかわらず、待ち合わせに遅れてしまうのだろうか。私はこのまま、森の中で野垂れ死にするのだろうか。
無念な思いで胸がいっぱいになり、項垂れた。
刹那、前方で薔薇色の光が煌めいた。
「誰だっ!?」
叫ぶと共に顔を上げた。直後、私の命を脅かす存在である可能性に思い至り、身が竦んだ。逃げなければ。心とは裏腹に、体は金縛りに見舞われたかのように動かない。前方の茂みが揺れ、薔薇色の光の正体が飛び出してきた。
凶暴な生物でも、巨大な生物でもなかった。人間の掌に載る体の大きさ、淡く薔薇色に輝く翅を背中から生やした、一糸まとわぬ姿の少女。妖精だ。幼少時に動物園で二・三度見た記憶があるが、野生の個体をお目にかかったのはこれが初めてだ。
妖精は静かに翅を羽ばたかせ、私の目の前まで移動した。夜空を球状に圧縮したような、黒く円らな瞳で私の顔を見つめる。
「めずらしいね、人間がこの森にいるなんて。……おさんぽ?」
思わず吹き出してしまった。笑いごとではない状況にもかかわらず、唇の隙間から笑いが漏れるのを抑えられない。妖精がブラックユーモアを好む種族だったなんて、この歳になって初めて知った。
妖精がきょとんとした顔を見せていることに気がつき、空咳をする。私は表情を引き締め、ありのままを話した。
「ようするに、遅れちゃいけない待ち合わせをしているから、はやく森から出たいんだけど、迷子になっちゃったから出られないってこと?」
「その解釈で間違っていないよ。……それにしても、まさか森の中でくたばることになるとはね。そんな未来、森に入った時には予想も――」
「わたし、知ってるよ」
息を呑み、妖精の顔を見返す。
「どの道を行けば森から出られるか、わたし、知ってるよ」
「本当か……?」
「ほんとうだよ。わたし、生まれたときからずっとこの森で暮らしてるから、この森の地理にはくわしいの。森の中なら、どこにでも好きな場所へ、迷わずに行ける自信があるよ」
高揚感が込み上げてくる。人間とは、なんと変わり身が早い生き物だろう。希望の光を目にした途端、絶望に打ちひしがれていた自分を過去に追いやるなんて。
「道を知っているなら、私を森の出口まで案内してくれないか。案内してくれるなら、君のためになんでもすると約束する」
「なんでもしてくれるの? 本当に?」
「ああ。私にできることであれば、なんだってするよ」
「なんでも、か。……それじゃあ」
妖精は私から目を逸らし、頬を赤らめた。そうかと思うと、羽ばたいてさらに私に接近し、肩に乗った。重みは全く感じず、仄かに甘い匂いがした。私の耳に唇を近づけ、こう囁いた。
「森の出口に着くまでの間、わたしにお話をして。わたし、人間のことを、あなたのことを、もっともっと知りたいの」
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