こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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「あっ、いけない。つい話し込んじゃった」
 榊さんは、いきなり背後から肩を叩かれたような反応を見せたかと思うと、知り合いが飼っているマルチーズが自宅から脱走した話を打ち切った。

「新原さん、買い物に行くんでしたよね。すみません、話に付き合わせて」
「いや、構いませんよ。急いでいるわけではないので。榊さんこそ、時間は大丈夫なんですか。今日はどちらへ?」
「K町にあるショッピングモールへ。先月オープンしたばかりのフランス料理のお店があるんですけど、買い物のついでにそこで昼食をとろうかと思って」
「フレンチですか。いいですね。お友達とご一緒ですか?」
「ううん、一人です。今日は一人」

 じゃあ、一緒に食事をしませんか。邪魔者も実家に帰っていることだし。
 そんなセリフが浮かび、不可抗力的に口角が緩んだ、次の瞬間、
 悲しげに少し眉をひそめた妻の顔が脳裏を過ぎり、思わず息を呑んだ。

 買い物に出かけている途中で、顔見知りのご近所さんである榊さんと偶然出くわした。榊さんは話し好きだし、話を始めると長い。簡単には解放してくれないので、仕方なしに付き合っている。
 現状に関して、俺はそう認識している。
 しかし、よく考えてみろ。よくよく考えてみるんだ、新原龍之介。
 夫が顔見知りの女性と仲睦まじく世間話に耽るというこの状況を、妻が快く思うはずがない。浮気だとか、不倫だとか、週刊誌とワイドショー御用達の言葉を持ち出すのは大げさにしても。

 妻のためを思うなら、なるべく早く会話を切り上げろ。榊さんという強敵が相手だから、実現は難しいかもしれないが、努力だけはするべきだ。
 俺は最善を尽くしているだろうか?
 残念ながら、そうは思えない。
 そして気がつく。榊さんと話をする時間が心地いいから、それに甘えて、端から努力を放棄しているのだ、と。

 今日が初めて、ではない。妻があちらに世界へ行ってからというもの、長々と話をする榊さんに対して、俺は一貫して今日のような態度をとってきた。長話に巻き込まれるのを事前に回避する努力はしていたが、いざ巻き込まれると、あたかも開き直ったかのごとくどっぷりと浸った。制限時間いっぱいまで話術に酔いしれた。
 話をするのが心地いいから、少しでも長く一緒に過ごしたい。そう言えばいかにもピュアだが、残念ながら俺は、牧歌的な村で生まれ育った青年詩人でも、遠くない将来に必ずや世界平和が実現すると信じ切っている純真無垢な少年でもない。どこにでもいるような三十三歳の男だ。魅力的な同年代の異性と共に過ごした、その先に待っているもの。それを期待しているのは明々白々だ。

 つまり、俺は榊さんに対して、以前から下心を抱いていた。

「そのお店、凄く美味しいのにお値段がお手ごろということで、かなり評判みたいですよ。中でも人気メニューは――」
 問題のフランス料理店の主立ったメニューの名称と特徴を、簡易的ながらも一通り語り終えると、今度は同じショッピングモール内に出店している他の飲食店について語り始める。しかしすぐに、なにかに気がついたように双眸を瞠り、照れ笑いをこぼした。

「すみません、また話が長くなってしまっていますね。もうそろそろ……」
「そうですね。よい一日を」
「新原さんも」

 榊さんの姿が完全に見えなくなってからスマホを確認すると、自宅を出てから半時間近くが経っていた。榊さんと出会うまでの時間を差し引いても、二十分以上も話をしていたことになる。
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