こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 建物の中は暖房がきいていて、人心地がついた。服か、アクセサリーか。そのどちらの店に行きたいのではと予想したが、案に相違して、食品売り場へと俺を引っ張っていく。

「あれ、出して」
 洗濯物、もうすぐ洗い終わるから干しておいて。そう告げるのと同じノリで短く言って、ショッピングカートを指差した。

「買いたいものでもあるのか。冬眠前の食い溜め?」
 冗談のつもりで笑いかけたが、ノーリアクションだ。五分ぶりくらいに妻を解放し、カートの列から一台を引っ張り出す。手を離した隙に、妻は食品売り場に向かってふらふらと歩を進め、床に足を滑らせて尻餅をついた。

「大丈夫ですかっ!」
 近く歩いていた、転倒の瞬間を目撃したらしい二十歳くらいの女性が、すかさず妻へと駆け寄った。
 心配そうに顔を覗き込む女性に対して妻が示してみせた、顔全体が弛緩したような笑みは、道で転んださいに自動車の運転手に向けたものに酷似していた。それを見て、女性は安堵したように頬を緩めた。

 大の大人が床に座り込んでいて、その顔を覗き込んでいる人物がいるという状況だが、周りの人間は誰も二人には注目しない。声をかける前に声をかけられたことで声をかけづらくなり、カートに両手をかけて立ち尽くす俺だけが彼女たちを見守っている。

 立てますか、と言ったのか、手を貸します、と言ったのか。小声だったので聞き取れなかったが、とにかくなんらかの短い言葉を女性が口にして、妻に右手を差し伸べた。それに対して妻は頭を振り、

「大丈夫です。あの人に起こしてもらうから。――わたしの旦那さん」
 妻は肩越しに俺を振り向き、満面の笑みのお手本のような笑みを浮かべてみせた。
 旦那さん、という言葉の響きに、俺の頬は不覚にも火照った。その呼び名で呼ばれたことは、結婚して以来数えるほどしかない。

 他人様の好意を惚気全開の理由から断ったということで、酷く気まずい思いをしながらも、俺は最小限の言葉と首の動きで女性に謝意を伝えた。女性が去った途端、周囲の注目が俺たちに集まり出した気がした。呼び方のことを言おうか、言うまいか。直前まで迷って、後者を選ぶ。

「しょうがないやつだな、お前は。ほら」
 背後に回り、脇の下に両腕を差し入れて引っ張り上げる。そのさい、さり気なくもがっつりと胸の膨らみに触れた。夫だからこそ許される抱き起こし方だ。
 少しふらつきながらも自力で立ち、相変わらずの弛緩した笑みを見せながら、「ありがとう」と妻は言った。

 妻がカートを希望したのは、それに乗るためだった。もちろん、断乎としてやめさせた。普段から子供っぽい真似を平気でするやつではあるが、度を越している。熱のせいで頭がおかしくなっているのは明らかだ。
 それを理由に、即時の帰宅を強く勧めたが、元より人の意見を素直に聞き入れる女ではない。こちらが譲歩する形で、気になる店を一通り見て回ることになったが、その一通りが長かった。服屋が三軒にアクセサリー店が一軒、なぜかベビー用品店にも立ち寄り、二階に移動して本屋、おもちゃ屋。締め括りに、一階に戻って食料品を少し買い、漸くショッピングモールをあとにした。

 体調が本調子ではないせいで、商品を棚から落としたり、擦れ違う人とぶつかったりと、付き添いの立場からすれば大変の一言だった。普通に見て回るときと比べれば、時間は倍はかかっていただろう。
 それでも、その秋の終わり、妻から言わせれば冬の始まりの出来事は、大切な思い出として記憶に残っている。
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