こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 だらしなく口を開けた乗車口から乗り込むと、人口密度が高い。自動車の走行音や人声などによって、休日の駅前は充分に騒々しかったはずだが、音がこもっているのか、乗り遅れずに済んだと分かって気が緩んだのか、急にうるさくなった気がする。

 空席を探して左見右見していると、新原さん、と出し抜けに声をかけられた。少しびっくりしたような、瑞々しい女性の声。
 音源に注目して、驚いた。
 俺を呼んだ人が俺を手招きする。その人のもとに直行する。

「榊さん」

 彼女が座っている席に到達するまでの数歩の時間、かけるべき言葉を探したが、その一言しか浮かばなかった。
 後ろから三番目、通路の左側、二人掛けの座席の窓側に腰を下ろしていたのは、榊さんその人だった。通路側の座席は空席で、塵一つ落ちておらず、まるで俺のために空けてあるかのようだ。

「びっくりしました。榊さんと公共の交通機関に乗り合せたことは――」
「初めてですよね。私も驚きました」
 榊さんは左手で口元を覆い隠して、少し興奮したように喋る。本日の服装は純白のブラウスに紺色のロングスカート。清楚さと気品が感じられて、とても似合っている。

「新原さんもお出かけですか? どちらまで?」
「美術館です。米津国際美術館」
「えっ、そうなんですか。私もです。偶然ですね!」
 榊さんの顔がランプを灯したように明るくなった。逆に俺は、顔の歪みを抑圧するのに全神経を注ぐ。

 これは、どういうことなんだ? 時が巻き戻ったのだから、一緒に美術館に行く約束を交わした事実はなかったことになったはずだ。にもかかわらず、同じ施設に行くことになったということは、正真正銘の偶然ということか。

 有り得ない、と思ったが、米津国際美術館は県内有数の観光名所で、榊さんは外出をするのが好きだ。一口だけ買った宝くじで五億円が当選したり、親友が乗っていた飛行機が墜落したり、でたらめにキーボードをタイプしたらカフカの『変身』が書き上がっていたりするよりも、よっぽど有り得る話ではあるだろう。

「新原さんは絵画に興味をお持ちなんですか?」
「いや、全く。実は、妻に見てきてほしいと言われまして」
「奥さまに?」
「はい」

 事情を説明しようとしたところで、もうすぐ発車する旨の車内アナウンスが流れた。威圧的ではない、眠たそうな初老の男性の声だったので、却って従わなければまずいという気持ちになった。榊さんは隣の空席を手で示し、

「ここ、空いているのでどうぞ」
「あっ、よろしいですか」
「もうここくらいしか空いていないと思いますよ。空いている席があるときは座った方がいいです」
「そうですね」

 じゃあ遠慮なく、と声に出しそうになったが、遠慮という言葉がなにか気持ち悪いものに思えたので、会釈だけして隣席に腰を下ろす。途端に榊さんの匂いが強まり、否応にも緊張は高まる。童貞を捨てても、成人しても、三十路に足を踏み入れても、女に起因するかぐわしい匂いにはどうも慣れない。
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