こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

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 何分かぶりに瞼を上げて窓外を見やると、バスはN市内に入っていた。たった今、消防署の横を通り過ぎた。米津国際美術館までの道のりは残り三分の一、といったところか。
 妻からの電話はかかってこない。
 短期的に見れば喜ばしいことなのかもしれなかったが、喜べなかった。妻は俺の腹の中を見透かしていて、本来ならば電話をかけてくるところを、あえて逆の対応をとったような、そんな気がしてならない。

 策略をもとに行動するなんて、あいつらしくない。
 言いたいことがあるなら、はっきりと言えよ。気持ち悪いな。らしくない真似、してんじゃねぇよ。
 そう声を荒らげたくなったが、こちらから電話をかけることはできない。こちらの世界の様子が見えているはずだから、想いを表明すればレスポンスが得られるかもしれないが、不特定多数の人間とバスに乗り合わせているという状況だから、それもしづらい。絶対に無理ではないが、実質的には不可能だろう。

 なんとも気持ち悪かったが、対処法が見つからないのだから仕方がない。妻のことは放っておこう。今は榊さん、とにかく榊さんだ。

 榊さんの口振りからして、言うべきことはおおむね決まっていて、あとは言うか言わないか、つまり勇気の問題だと思われる。約束を反故にすることになるが、なにか言葉をかけて、背中を押してあげるのも一つの手かもしれない。
 美術館まではそう遠いわけではない。話の容量によっては、そろそろ話し出さなければ先に目的地に着いてしまう。着くまでに話さないとなんらかの大きな不都合が生じる、ということではないのかもしれないが、重たい雰囲気のまま興味のない美術品を鑑賞する未来を思えば、美術館への到着を期限と定めたい。

 とはいえ、約束は約束だし、どうしよう?

 断続的に榊さんの顔色を窺っていると、目が合った。致命的ではないが、見られないに越したことはない失態を見られた、といった反応を彼女は見せた。しかし予想に反して、窓外へと視線を逃がすことはない。数瞬の間を挟んで、どこか弱々しく口元を綻ばせる。諦めと安堵、両方の感情が読み取れる表情だ。

「長々と迷ってはいましたけど、迷い始める前から、新原さんには洗いざらい打ち明けるつもりでした」
 体を斜めにして俺に向き直り、榊さんは話し始めた。

「こんなにも長い時間、新原さんと話をしたのは今日が初めてですが、言葉を交わす中で、誠実な方だ、信頼が置ける方だと確信できましたから。体を触られたのには驚いたし、戸惑いも少なからずあったんですけど、それはまあ、やんちゃな一面もお持ちということで」
 故意に表情を和らげたのだと分かる、いささか硬さが感じられる笑みをこぼし、すぐさま顔つきを引きしめる。

「それじゃあ、どこから話そうかな。……うーん。単刀直入に話した方がいいんだろうけど」
 俺の目を見ながら喋ってはいるが、まるで独り言を口にしているかのようだ。榊さんは緊張しているのだ。理解したのを境に、鼓動が少し速まった。

 打ち明け話は、思いがけない告白によって口火が切られた。

「私、夫がいるんですけど――」
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