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昆虫の羽音にも似た音が聞こえた。蚊というよりも蜂のそれに近い。顔を上げると、星の中央でスマホがバイブしていた。
猛然と這い進んだ。線が崩れ、五芒星は五芒星の体裁を失ったが、そんな些事は気にも留めない。ひったくるようにスマホを掴み、
「もしもし」
「龍くん、面白すぎだよー」
薄皮一枚を破いた途端に笑い声が溢れ出しそうな声。紛れもなく、我が妻・新原汐莉のものだ。
「どうやったらそんな動きができるの? お芝居だと絶対に表現できない動きだよね。いいなー、羨ましい。生きている世界が同じだったら、一緒になって砂浜を駆け回りたかったなー。高校生のときに流行った歌なんかを大声で歌いながら」
「……やっぱり見えてんじゃねぇか」
腹の底から押し出すように吐き捨てる。悪態こそついたが、汐莉が普段通りの汐莉だったこと、普段通りの調子で言葉を返せたことに、冷水を摂取した体が徐々に冷えていくように安堵が広がっていく。俺の顔面は分かりやすく弛緩しているはずだが、それも汐莉には見えているのだろうか。
「なんで電話くれなかったんだよ。こっちはお前を必要としているんだから、応えてくれよ。時間を巻き戻すなんて凄い力を持っているんだから、好きなタイミングで連絡を入れるくらい、朝飯前だろ」
「もう朝ごはんは食べたあとだし、それにね、こっちにもいろいろ事情があるの。ふわふわしてて掴みどころがないから、動かないものよりも目が離せないんだ。簡単に見えるけど、実際にするとなると難しくて」
「……そうだな。その程度のことで文句を言う俺が愚かだったよ」
相変わらず、汐莉の言っていることは意味がよく分からない。あちらの世界の詳細を妄りに話してはならないルール、汐莉のいい加減な性格、両方が組み合わさったからこその意味不明。今さら怒る気にはなれないし、怒っている場合でもない。
「ていうか、なんでわたしを呼んだの? 話があるとか、言っていたような、言ってなかったような」
「言ったよ。汐莉に一つ、要望があってね」
「要望?」
「そう。今日から、可能なら、二人で話す機会を増やさないか」
「話す機会を増やす? どういうこと?」
「言葉通りの意味だよ。俺たちはもっと、会話する機会を増やした方がいい。いや、増やすべきだ」
電話の向こうの世界が静かになった。
「汐莉は、俺が榊さんと仲睦まじくしているのが気に食わなくて、時を巻き戻したんだろう。でもさ、夫婦の間で充分な会話時間が確保されていたとしたら、俺が多少誤解を招くような真似をしたとしても、汐莉は寛大な気持ちで事態を受け止められると思うんだよ。いや、そもそも、俺が汐莉を悲しませるような真似をしなくなる」
いったん言葉を切る。汐莉はなにも言わない。
「夫婦間の会話が少ないのが諸悪の根源だって、バスに揺られている最中に唐突に悟ったんだ。
汐莉があっちの世界に行ってから、俺たち、無駄話が目的で長話をする機会があまりなかっただろ。汐莉が俺になにか用があるときにかけてきて、脱線なんかも挟みつつ用件について話して、話し終わったら汐莉の方からさっさと切る、みたいな形が多かった。
済んだことだから、過去のことをとやかく言うつもりはない。そもそも、全くかけてきてくれないよりは、用があるときだけでもかけてくれた方が断然嬉しいしね。
でも、これからは無駄話もしよう。話し飽きたり話し疲れたりするまで、くだらないことを延々と話そう。俺たちはそうするべきだよ。絶対にそうするべきだ」
汐莉は口を挟まない。相槌を打つことも、無意識に声を漏らすこともない。無言で頷きながらではなく、身じろぎさえ最小限に留めて静かに聞き入っている、そんな気配が伝わってくる。汐莉にしては珍しい態度だ。
猛然と這い進んだ。線が崩れ、五芒星は五芒星の体裁を失ったが、そんな些事は気にも留めない。ひったくるようにスマホを掴み、
「もしもし」
「龍くん、面白すぎだよー」
薄皮一枚を破いた途端に笑い声が溢れ出しそうな声。紛れもなく、我が妻・新原汐莉のものだ。
「どうやったらそんな動きができるの? お芝居だと絶対に表現できない動きだよね。いいなー、羨ましい。生きている世界が同じだったら、一緒になって砂浜を駆け回りたかったなー。高校生のときに流行った歌なんかを大声で歌いながら」
「……やっぱり見えてんじゃねぇか」
腹の底から押し出すように吐き捨てる。悪態こそついたが、汐莉が普段通りの汐莉だったこと、普段通りの調子で言葉を返せたことに、冷水を摂取した体が徐々に冷えていくように安堵が広がっていく。俺の顔面は分かりやすく弛緩しているはずだが、それも汐莉には見えているのだろうか。
「なんで電話くれなかったんだよ。こっちはお前を必要としているんだから、応えてくれよ。時間を巻き戻すなんて凄い力を持っているんだから、好きなタイミングで連絡を入れるくらい、朝飯前だろ」
「もう朝ごはんは食べたあとだし、それにね、こっちにもいろいろ事情があるの。ふわふわしてて掴みどころがないから、動かないものよりも目が離せないんだ。簡単に見えるけど、実際にするとなると難しくて」
「……そうだな。その程度のことで文句を言う俺が愚かだったよ」
相変わらず、汐莉の言っていることは意味がよく分からない。あちらの世界の詳細を妄りに話してはならないルール、汐莉のいい加減な性格、両方が組み合わさったからこその意味不明。今さら怒る気にはなれないし、怒っている場合でもない。
「ていうか、なんでわたしを呼んだの? 話があるとか、言っていたような、言ってなかったような」
「言ったよ。汐莉に一つ、要望があってね」
「要望?」
「そう。今日から、可能なら、二人で話す機会を増やさないか」
「話す機会を増やす? どういうこと?」
「言葉通りの意味だよ。俺たちはもっと、会話する機会を増やした方がいい。いや、増やすべきだ」
電話の向こうの世界が静かになった。
「汐莉は、俺が榊さんと仲睦まじくしているのが気に食わなくて、時を巻き戻したんだろう。でもさ、夫婦の間で充分な会話時間が確保されていたとしたら、俺が多少誤解を招くような真似をしたとしても、汐莉は寛大な気持ちで事態を受け止められると思うんだよ。いや、そもそも、俺が汐莉を悲しませるような真似をしなくなる」
いったん言葉を切る。汐莉はなにも言わない。
「夫婦間の会話が少ないのが諸悪の根源だって、バスに揺られている最中に唐突に悟ったんだ。
汐莉があっちの世界に行ってから、俺たち、無駄話が目的で長話をする機会があまりなかっただろ。汐莉が俺になにか用があるときにかけてきて、脱線なんかも挟みつつ用件について話して、話し終わったら汐莉の方からさっさと切る、みたいな形が多かった。
済んだことだから、過去のことをとやかく言うつもりはない。そもそも、全くかけてきてくれないよりは、用があるときだけでもかけてくれた方が断然嬉しいしね。
でも、これからは無駄話もしよう。話し飽きたり話し疲れたりするまで、くだらないことを延々と話そう。俺たちはそうするべきだよ。絶対にそうするべきだ」
汐莉は口を挟まない。相槌を打つことも、無意識に声を漏らすこともない。無言で頷きながらではなく、身じろぎさえ最小限に留めて静かに聞き入っている、そんな気配が伝わってくる。汐莉にしては珍しい態度だ。
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