こちらの世界で、がんばる。

阿波野治

文字の大きさ
62 / 63

62

しおりを挟む
「ああ、そうそう。もう一つ汐莉に相談なんだけど」
 笑い声が収束したタイミングで、立て膝から胡坐をかく姿勢に移行する。

「榊さんが俺に言っていたよね、仲よくしてほしいって。あれ、どう返事をしたらいいかな?」
「オッケーすれば」
 即答だった。まるで、そう訊かれたらこう答えると事前に決めていたかのように。

「榊さんと友達になっちゃいなよ。その方が絶対にいいよ。親しい人が一人でも多い方が楽しいもん」
「いや、でも、そうしたら汐莉が嫌なんじゃないか。時間をいちいち巻き戻されるのは俺だって……」
「龍くんの説によると、会話時間が少ないといけないことをしちゃうんでしょ? 今日からはいっぱい、いっぱいお話するから、その心配はないよね。それなら、わたしが駄目だって言う理由はないよ。地上の果てまで探しに行っても見つからない」
「……そっか。そうだよな。汐莉の言う通りだ」
「結婚して以来、龍くんが他の女の人と遊びに行くのが初めてだったっていうのもあるけど、ちょっと神経質になりすぎていたって反省してる。だから、これからはそんなに気をつかわなくてもいいよ。週に一回、日帰りで遊びに行くくらいなら全然オッケーだし。あ、でも、わたしのことを蔑ろにしないのが前提ね」
「もちろん。言われるまでもないよ」
「ちょっと残念なのは――」

 俺はてっきり、榊さんの体に故意に触れた件に言及してくるのかと思った。普通の女ならば当然そうするから、というのがその理由だったのだが、予想は外れた。

「榊さんが、龍くんに対してだけ仲よくなろうって言ったことかな。龍くんの奥さんなのに、仲間外れって……。残念を通り越して、ショックかも」
「ああ、それなら違うぞ。榊さんに汐莉を排除する意図はない」

 聞こえてきたのは、心の底から困惑しているような「えっ」という声。

「俺もそこが引っかかったんだよ。榊さんらしくないドライな発言だな、と思って。だから、どういうことなのかなって考えてみたんだけど」
「うん」
「榊さんは、汐莉のことを既に友達と認識しているんだよ。だから、わざわざ仲よくなる努力をする必要がない。そういうことだから、汐莉はなにも心配するな」

 間が生じた。不安になる長さだったが、やがて聞こえてきた声は、汐莉らしい陰のない明るさに包まれていた。

「そっか。そうだったんだね。嫌われているのかと思ったけど、逆だったんだね。そっか、そっか。そこに気づくとは、さすがは龍くん」
「まあな」
「わたしがこっちの世界に来てからはご無沙汰していたけど、またお話したいな。わたしの声、龍くん以外の人にも聞こえてるよね?」
「ああ。お前がかけてきたあとの榊さんの反応を見た限り、そんな感じだったな。多分だけど、パートナーがあちらの世界に行った人間は、パートナー以外のあちらの世界の住人の声も聞けるんじゃないかな」
「ああ、なるほど。そういうことなら、一気に楽しみが増えたねー」
「そうだな」

 そう、一気に。俺が「もっと話さないか」と汐莉に提案したのを機に、あらゆるものがよい方向に向かい始めた。
 やはり、人は話すべきだ。嫌いな人間同士だってそうだし、好きな人間同士なら、なおさら。

「で、龍くんはこれからどうするの?」
「とりあえず、バスを待とうかな。美術館からこっち方面に来るバス。榊さんが乗っているバスになんとか乗って、車内で話をしようかな、と」
「なんで? 龍くんが美術館へ行けばいいのに」
「いや、一緒には行きませんって言ったから。約束を即行で破ったら、気持ち悪いだろ。どう考えても気持ち悪い」
「そうかな? わたしは嬉しいけどなー、追いかけてきてくれたら」
「榊さん相手にこれ以上、誤解を招くような真似はできないよ。太ももをしつこく触った時点でツーアウトっていうか」
「榊さんと仲よくするのはいいけど、今後そういうのは禁止ね」
「分かってるよ。心配するな」

 腰を上げて移動を開始する。バス停まではすぐだ。標識で発着時刻を確認する。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

処理中です...