台風と金木犀

阿波野治

文字の大きさ
1 / 17

阿澄 一

しおりを挟む
 白く、薄暗く、吐き気を催すほど清潔な部屋に置かれたベッドの上で、生後十四時間の阿澄は母の胸に抱かれている。
「ごめんね」
 母は涙を流しながら譫言のようにつぶやく。
「ごめんなさいね、阿澄。私が不幸な結婚をしてしまったばかりに、こんな世界に産み落としてしまって」

 阿澄は泣き出した。
 自分を産んでくれた人の悲しむ姿に感化されたのではない。こんな世界に産み落とされ、生きていかなければならないことが悲しくなり、泣いてしまったのだ。
 母は娘が母乳を欲しているのだと早合点し、急ぎがちに服の前をはだけて乳首を口に含ませた。とたんに阿澄は空腹を覚え、我を忘れて乳汁を貪り飲んだ。

 世界の終わりのような静寂が病室を満たしている。我が子を見下ろす母の顔つきと眼差しを、阿澄はいっさい記憶していない。


* * *


「阿澄が生まれようとしていたとき、お父さんは車の中にいたよ。病院の駐車場に停めた自分の愛車の中にね。朝食を食べていたんだ。出産がはじまったのが夜中の三時過ぎだったかな。お父さんたちが住む町にちょうど台風が来ていたから、外は雨と風がすごかったよ。たしか強風域に入っていたんじゃないかな」
 阿澄の父は機会を見つけては、本人を含む家族の前で、娘が生まれたときのこと語った。

「大慌てで病院に駆けつけたんだけど、なかなか出産がはじまらなくてね。先に朝食をすませておこうと思って、近所のコンビニまで車を走らせたんだ。買ったのは、中身がたっぷり詰まったクリームパン。車内は薄暗くて、黄色いはずのカスタードクリームが白く見えたよ。そのたっぷりと入ったクリームが、パンを噛みしめるたびに中からどろりとあふれ出すんだ。おいしかったよ。むちゃくちゃおいしかった。予定日がいよいよ近づいて、お母さんの出産のことで頭がいっぱいの日々を送っていたから、一人きりで食事ができてほっとして、だからこそそう感じたんだろうね。けっきょく、食べている途中で『出産がはじまった』って携帯電話に連絡が入ったから、パンは最後まで食べられなかったんだけど」
 特にクリームパンを食べるくだりは、しつこいくらいに何度も語った。
「まだ早朝で、外は台風で、車内は薄暗くて、クリームが白く見えたよ。カスタードクリームのはずなのに白かった。その白いクリームが、パンにかぶりつくたびにどろりとあふれて――」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

洒落にならない怖い話【短編集】

鍵谷端哉
ホラー
その「ゾワッ」は、あなたのすぐ隣にある。 意味が分かると凍りつく話から、理不尽に追い詰められる怪異まで。 隙間時間に読める短編ながら、読後の静寂が怖くなる。 洒落にならない実話風・創作ホラー短編集。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...