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阿澄 一
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白く、薄暗く、吐き気を催すほど清潔な部屋に置かれたベッドの上で、生後十四時間の阿澄は母の胸に抱かれている。
「ごめんね」
母は涙を流しながら譫言のようにつぶやく。
「ごめんなさいね、阿澄。私が不幸な結婚をしてしまったばかりに、こんな世界に産み落としてしまって」
阿澄は泣き出した。
自分を産んでくれた人の悲しむ姿に感化されたのではない。こんな世界に産み落とされ、生きていかなければならないことが悲しくなり、泣いてしまったのだ。
母は娘が母乳を欲しているのだと早合点し、急ぎがちに服の前をはだけて乳首を口に含ませた。とたんに阿澄は空腹を覚え、我を忘れて乳汁を貪り飲んだ。
世界の終わりのような静寂が病室を満たしている。我が子を見下ろす母の顔つきと眼差しを、阿澄はいっさい記憶していない。
* * *
「阿澄が生まれようとしていたとき、お父さんは車の中にいたよ。病院の駐車場に停めた自分の愛車の中にね。朝食を食べていたんだ。出産がはじまったのが夜中の三時過ぎだったかな。お父さんたちが住む町にちょうど台風が来ていたから、外は雨と風がすごかったよ。たしか強風域に入っていたんじゃないかな」
阿澄の父は機会を見つけては、本人を含む家族の前で、娘が生まれたときのこと語った。
「大慌てで病院に駆けつけたんだけど、なかなか出産がはじまらなくてね。先に朝食をすませておこうと思って、近所のコンビニまで車を走らせたんだ。買ったのは、中身がたっぷり詰まったクリームパン。車内は薄暗くて、黄色いはずのカスタードクリームが白く見えたよ。そのたっぷりと入ったクリームが、パンを噛みしめるたびに中からどろりとあふれ出すんだ。おいしかったよ。むちゃくちゃおいしかった。予定日がいよいよ近づいて、お母さんの出産のことで頭がいっぱいの日々を送っていたから、一人きりで食事ができてほっとして、だからこそそう感じたんだろうね。けっきょく、食べている途中で『出産がはじまった』って携帯電話に連絡が入ったから、パンは最後まで食べられなかったんだけど」
特にクリームパンを食べるくだりは、しつこいくらいに何度も語った。
「まだ早朝で、外は台風で、車内は薄暗くて、クリームが白く見えたよ。カスタードクリームのはずなのに白かった。その白いクリームが、パンにかぶりつくたびにどろりとあふれて――」
「ごめんね」
母は涙を流しながら譫言のようにつぶやく。
「ごめんなさいね、阿澄。私が不幸な結婚をしてしまったばかりに、こんな世界に産み落としてしまって」
阿澄は泣き出した。
自分を産んでくれた人の悲しむ姿に感化されたのではない。こんな世界に産み落とされ、生きていかなければならないことが悲しくなり、泣いてしまったのだ。
母は娘が母乳を欲しているのだと早合点し、急ぎがちに服の前をはだけて乳首を口に含ませた。とたんに阿澄は空腹を覚え、我を忘れて乳汁を貪り飲んだ。
世界の終わりのような静寂が病室を満たしている。我が子を見下ろす母の顔つきと眼差しを、阿澄はいっさい記憶していない。
* * *
「阿澄が生まれようとしていたとき、お父さんは車の中にいたよ。病院の駐車場に停めた自分の愛車の中にね。朝食を食べていたんだ。出産がはじまったのが夜中の三時過ぎだったかな。お父さんたちが住む町にちょうど台風が来ていたから、外は雨と風がすごかったよ。たしか強風域に入っていたんじゃないかな」
阿澄の父は機会を見つけては、本人を含む家族の前で、娘が生まれたときのこと語った。
「大慌てで病院に駆けつけたんだけど、なかなか出産がはじまらなくてね。先に朝食をすませておこうと思って、近所のコンビニまで車を走らせたんだ。買ったのは、中身がたっぷり詰まったクリームパン。車内は薄暗くて、黄色いはずのカスタードクリームが白く見えたよ。そのたっぷりと入ったクリームが、パンを噛みしめるたびに中からどろりとあふれ出すんだ。おいしかったよ。むちゃくちゃおいしかった。予定日がいよいよ近づいて、お母さんの出産のことで頭がいっぱいの日々を送っていたから、一人きりで食事ができてほっとして、だからこそそう感じたんだろうね。けっきょく、食べている途中で『出産がはじまった』って携帯電話に連絡が入ったから、パンは最後まで食べられなかったんだけど」
特にクリームパンを食べるくだりは、しつこいくらいに何度も語った。
「まだ早朝で、外は台風で、車内は薄暗くて、クリームが白く見えたよ。カスタードクリームのはずなのに白かった。その白いクリームが、パンにかぶりつくたびにどろりとあふれて――」
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