記憶士

阿波野治

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 肩幅ほどに開いた戸から、青みがかった人工の光が漏れている。使われているのは昔ながらの白熱電球なのに、LEDライトよりも眩い。どこか神秘的で、妖艶で、仄かな緊迫感を孕んでいる。たとえるならば、非人道的な実験が極秘裏に行われているかのような。
 窓から体を離し、忍び足で自室から出る。

 シンデレラの魔法が解ける時刻は目と鼻の先だ。中学一年生のわたしにとって、そろそろ就寝しなければならない時間帯だったが、親が定めたルールを順守するよりも大切なこともある。足音を立てないように注意を払いながら廊下を進み、階段を下りる。
 こんな遅い時間に、お母さんはなにをしているのだろう。脳裏に去来するのはその思いばかりだ。一刻も早く、この目で真実を確かめたい。とても嫌な予感がする。

 外に世界に一歩踏み出したわたしを、金木犀の香りを孕んだぬるい夜気が歓待した。刹那、忽然と浮かんだ可能性に、闇の中で硬直してしまう。
 蔵の中にいるのは、お母さん以外の人間なのでは?

 晩秋の虫が草陰でか細く鳴いている。暗夜の中で枝を伸ばす庭木は、化け物じみて見える。拭いきれない不安を胸に、前だけを見て黙々と歩を進める。
 戸の陰に佇んで気配を探る。人気を感じる。物音は聞こえてこない。口腔の唾を無音で飲み下し、恐る恐る中を覗き込んだ。

 瞬間、迸り出た悲鳴が夜陰を裂いた。
 わたしの口から溢れ出した悲鳴だ。

 明かりが灯ってもなお仄暗い空間の中央、茣蓙が敷かれたその上に、お母さんが横たわっていた。全身を弛緩させ、四肢を投げ出したその姿は、突然の発作に襲われて意識を失ったかのようだ。

「お母さん! お母さん!」

 コンクリートの床を蹴って飛ぶように駆け寄る。茣蓙に膝をついて肩を揺さぶると、連動して体全体が揺れた。体温が感じられる。脈もある。目を瞑った顔は、安らかとはいえないが、苦悶の表情が浮かんでいるわけではない。
 本来であれば、胸を撫で下ろすべき場面なのかもしれない。しかし、わたしの鼓動は速いままだ。肩に両手を置いたまま、瞬きの回数を意識的に抑制し、お母さんの顔をじっと見つめる。
 一瞬、瞼が痙攣した。

 わたしは息を呑んだ。殆ど間を置かずに、今度は唇に同じ現象が生じた。その唇が薄く開き、目覚めたばかりの人が無意識に発するような、緊張感に欠けるうめき声が漏れた。
 声をかけようとすると、瞼がゆっくりと持ち上がり、漆黒の瞳がわたしを直視した。
 視線の先にあるお母さんの表情は、そして雰囲気は、普段の彼女のそれではなかった。言語化不可能ななにかが根本的に違っていた。
 弱々しくでも力強くでもなく、お母さんの唇が動く。

「秋奈、どうしたの? そんな怖い顔をして」

 わたしは返事ができなかった。
 幼い少女が、頭に浮かんだ想念をそのまま口にしたような、そんな声だったから。


* * *


 わたしの名前に使われた季節になると、毎日のように思い出す記憶だ。
 それ以外の季節にも、ふとした拍子に思い出す記憶でもある。
 その出来事が起きて以来、わたしを取り巻く環境は劇的に変わった。わたしも変わらざるを得ないほどの大きな変化だった。だから、忘れたくても忘れられないし、ちょっとした弾みですぐに思い出す。
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