記憶士

阿波野治

文字の大きさ
44 / 90

44

しおりを挟む
 まずわたしが出て、お母さんが湯船から出るのを助ける。風呂椅子に座らせ、石鹸をたっぷりと含ませて泡立てたタオルで裸体をこする。お母さんの方から「体を洗ってあげようか」と提案することもあるが、手にあまり力がこもらず、悪戯にくすぐったいだけなので、苦手だ。今日はなにも言わなかったので、介護者としての役割に徹する。

 ベッドの上で大半の時間を過ごす生活を送るようになってから、お母さんはかなり痩せた。着衣していてもその細さは一目瞭然だが、脱衣するとその特徴が一層強調される。肋骨はくっきりと浮き出ているし、四肢は折れそうなほど細い。乳房はしぼんではいないが、張りが失われていて瑞々しさが感じられず、貧弱な体つきとの対比で酷く重たげだ。

 記憶士として活動していたころのお母さんは、若々しくて精力に満ち溢れていた。肉体を鍛えるための特別なトレーニングは積んでいなかったが、引き締まった体つきをしていた。同性のわたしから見ても魅惑的な肢体の持ち主だった。授業参観のさいに教室に姿を見せる、年齢よりも若く見える美しいお母さんを、わたしは密かに誇りに思っていた。逆上がりができない娘に手本を示すべく、いとも容易く体を一回転させてみせた姿は、今も色褪せずに記憶に残っている。

 当時を思うと、現在のお母さんの裸体は、憐憫と哀愁を催す装置でしかない。
 もう、あのころのお母さんではないのだ。そう実感を強いられるいくつかのシチュエーションの中で、裸を見たときほど胸が切なくなるものはない。
 食べ物をシーツにこぼしても、支離滅裂なことを口走っても、今日は体調が悪いのだ、朝が早いから寝ぼけているのだ、といった、なんらかの言い訳が用意できる。しかし、肉体の場合はそれができない。痩せ細ったその体は、真実そのものだ。

 お母さんは放心したような顔つきで、うっすらと曇った鏡に映る自分と見つめ合っている。鏡越しに目が合うのを恐れるかのように、わたしは俯く。わたしを生み、育ててくれた人の体を黙々と洗う。

 お母さんの前でお兄ちゃんのことを悪く言うのは控えるようにしよう、とわたしは心に決める。
 お母さんは別に、贔屓と呼ぶほどあからさまに差をつけて兄妹を扱っているわけではない。息子も娘も、どちらも愛していて、甲乙をつけるとなった場合に、僅かながらも夏也が上回る。ただそれだけの話なのだから。
 自分が今のような身の上になっても、子どもたちに対する優しさを、思いやりを、慈悲深さを失わずに、温かな光で照らしてくれる。それだけで充分だ。

 黒い渦はいつしか回転を停止している。わたしたちが入浴を終えるころには跡形もなく消滅しているだろう。

 わたしが不満をぶつけるべき相手は、お母さんではない。
 わたしとお兄ちゃんは、いつか絶対に話し合う必要がある。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...