記憶士

阿波野治

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 呼吸が落ち着くのに比例して、夏也の横暴に対する憤りは静まっていく。
 心が一定の落ち着きを回復すると、今度は自責の念が込み上げてきた。お母さんが日頃から望んでいないと公言している、兄妹喧嘩をしてしまったこと。そして、実母の介護は当然の義務であるかのように普段は振る舞っているくせに、その実、負担に感じていた自分。その二つを責める気持ちだ。

 一人の人間の食事入浴その他の面倒を見るのだから、精神的体力的な疲労は感じて当然。介護の対象が愛する肉親であれば、一切の苦痛なく支えていけるという認識は、甘すぎる。間違っている。
 そう重々承知していたはずなのに、「蜂須賀冬子の介護が重荷だ」という意識を自分が持っていた事実に、ショックを受けているわたしがいる。

 介護は大変だから、苦痛を覚え、負担に感じるのは当然だ。たまの休日くらい休みたいと思うのは、当たり前。それなのに、丸一日遊びたいという願いを聞き入れようとしない夏也の対応は、間違っている。
 親の介護は子どもにとって当然の義務なのだから、大変でも苦痛でも負担でも、それを理由に羽目を外すことがあってはならない。半日間、羽を伸ばす機会が与えられたのだから、それで満足するべきだ。丸一日遊べないことに文句を垂れるのは、わがまま以外のなにものでもない。
 相反する思いがせめぎ合い、最後の審判の日が訪れても決着がつきそうにない。

 これまで、お母さんとは適切な距離を保って接してきたつもりだ。しかし、葛藤しているうちに自信が薄らいできた。
 葛藤の根本の原因が、夏也の身勝手な主張にあることを失念したわけではない。しかし、先ほどのいさかいで消耗してしまい、兄ともう一度戦うだけの気力は湧かない。それどころか、なにかをする気力でさえも。

 だからといって、ベッドの上でいつまでも横になっているわけにはいかない。他人の助けを必要としている人が、夕食の到着を待っている。
 十分程度の遅延こそあったが、夏也はすでに食事を終えているだろう。その食器の後片付けをするのは、わたしだ。

 人間、得手不得手がある。可能不可能がある。その役目を自分がこなすこと自体は、なんとも思わない。
 ただ、夏也は食器洗いの仕事に対して、謝意を伝えてくれたことはあっただろうか。「ありがとう」という言葉ではなくても、眼差しで、首の動きで、形あるプレゼントをお返しに贈るという形で。
 そう思うと、気力はますます減じていく。ああ駄目だ、と思う。

 もうしばらく、ベッドから動けそうにない。


* * *


 買い物に出かけようと自宅を出たわたしは、庭の金木犀の傍らで夏也が大の字に倒れているのを見て、思わず息を呑んだ。
 急病に見舞われて気を失っているのかと思ったが、違った。夏也が着ているのは、いつも稽古のときに着用している、黒を基調にしたトレーニングウェア。稽古を終えたばかりで疲労困憊しているのだ。

 お母さんが具体的にどのような稽古を夏也に課しているのかを、当時のわたしは一ミリも把握していなかった。ただ、疲れてぼんやりとしている姿はよく目撃していたので、厳しいものなのだな、という見当はついていた。

 ちょうどコンビニに行くところだし、飲み物を買ってきてあげようかな。お兄ちゃんは選り好みが激しいから、希望を訊いておいた方がいいかも。

 わたしは夏也へと歩み寄った。声をかけようとすると、顔を覆っていた純白のタオルがひとりでに滑り落ちた。
 露わになった顔を見て、再び息を呑んだ。
 汗まみれのその顔は、見飽きるほどに見慣れたその顔は、激しい憎悪と憤怒に染め上げられていて、まるで別人のそれだったのだ。

「なにが稽古だよ。なにが記憶士だよ。あのババア、絶対にぶっ殺してやる……」

 言葉を返すどころか、身じろぎ一つできない。夏也がお母さんのことを「ババア」と呼ぶのを聞いたのは、それが初めてだった。

 以後、夏也は折に触れて、母親に対する不満や稽古に対する愚痴を、わたしに向かって口にするようになった。
 しかし、具体的にお母さんのどこが嫌なのか、稽古のなにが苦痛なのかは、決して明言しようとはしなかった。その傾向は、お母さんが倒れてからも変化はなかった。
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