記憶士

阿波野治

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 お母さんは今日出かけたときの話をするよう、わたしに要請した。喜んで求めに応じたが、求めた張本人は、腰を入れて聞いてはいないらしい。マイペースに食事を口に運び、たまに窓外に目を向ける。そうかと思うと、「今日は気持ちよく晴れてるわね」などと天気の話を蒸し返す。
 掴みどころのない、突飛な反応には慣れている。同じ話題が反復されていることは指摘せずに、適切と思われる言葉を律義に返していく。
 こんなお母さんを見て、星羅はどう思うだろう? やはり、戸惑うに違いない。気まずい雰囲気が漂うかもしれないと思うと、不安だ。

 やがて食事が終わる。星羅が来ることを事前に伝えておくか否か。迷うところではあったが、なにも告げずに部屋を出る。
「昼間だから大丈夫」と本人が断言したとはいえ、星羅を長い時間一人きりにしたくない。食事を駆け足で済ませ、三人分の食器を洗い桶に残したまま家の外へ。

 星羅はすでに門の前で待っていた。敷地の中を覗き込んでいたので、わたしが出てきたことにすぐに気がついた。手招きをしたが、その場から動こうとしない。星羅のもとへと走る。

「星羅、ごめん。待たせちゃった?」
「ううん、一分くらい前に来たばかり。……それにしても」
 星羅は視線を蜂須賀家に注ぐ。
「大きな家だね。目に入った瞬間、本当にびっくりした。凄く立派で、雰囲気があって。なんていうか、名家って感じ」
「サイズだけは立派なんだよね、うちは。じゃあ、家の中に行こうか」
 頷いた顔は緊張気味だ。

「多分、寝たきりとか、それに近い生活になったら誰でもそうなると思うんだけど……。うちのお母さん、老けちゃってね。髪の毛だって真っ白になっちゃったし。いろいろとびっくりすると思うけど、悪意があって変に振る舞うわけじゃないから。それは保証する」

 庭を突っ切り、廊下を移動する時間を利用して、星羅に説明する。返事は一度もなかった。
 目的の部屋の前に辿り着き、わたしたちは顔を見合わせる。相変わらず少し緊張した顔で、星羅は頷いた。わたしはドアをノックする。

「お母さん、入るよ」
 ドアを開くと、お母さんはベッドから下りようとしていた。トイレに近い側ではなく、窓に近い側の床へと両足を下ろそうとしている。ベッドガードにつかまる両手は微かに震えている。

「お母さん!」
 わたしは慌ててお母さんに駆け寄る。

「危ないよ、無理して下りたら」
「大丈夫よ。お昼を食べる前はちゃんと一人でできたもの。ゆっくり、慎重にやれば、絶対に大丈夫」
「でも、今はベッドの上にいよう。危ないから駄目ということじゃなくて――ほら」

 入ってきたばかりのドアを指差す。その動作に釣り込まれて、お母さんはそちらへと視線を投げかける。蜂須賀冬子と多木星羅、初対面の二人の目が合った。
 一拍を置いて、星羅はどこかたどたどしくお辞儀をした。お母さんは半分口を開いた表情のままフリーズしている。視線を逸らすことも、言葉を発することもない。

「お母さん、とりあえず横になろうか。トイレ、大丈夫だよね」
「ええ」
 お母さんは頬を緩めて頷いた。わたしは手招きで星羅を呼び寄せ、お母さんがベッドに戻るのをサポートする。

 ベッドに角度をつけてお母さんを楽な姿勢にする。星羅に手振りでパイプ椅子に座るよう促すと、黙って指示に従った。二人が試合に臨む格闘技選手なのだとすれば、試合開始のゴングが鳴る直前のレフェリーの位置にわたしは立つ。

「お母さん、この子、わたしの友だち。多木星羅っていう名前なんだけど」
 お母さんは微かに頷いたように見えた。
「家まで遊びに来てくれたから、お母さんのことを紹介しようと思って。だから、部屋まで来てもらったんだ」

 どう話を繋げればいいかに迷い、口を噤む。無理もない。お母さんと会いたいと言い出したのは、わたしではなく星羅なのだから。
 お母さんは仄かに笑った表情で星羅を見ている。顔を凝然と見つめるのではなく、全身を漠然と眺めている。機嫌は悪くないのだろうと察しはつくが、心の中までもを読み取り、読み解くのは難しい。
 星羅の緊張状態は続いているようだ。視線を注がれたことでその感覚は高まったらしく、膝の上の両手に力がこもっている。
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