切言屋

阿波野治

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初めての説得②

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「じゃあ、パパは一時間後くらいに迎えにくるから。それまでのあいだ、がんばりすぎない程度にがんばってね。任せたよー」

 説得の舞台となる二階の様子を見たあと、草太朗はそんな言葉を残して吉村家を辞去した。

 別行動をとると昨夜の時点で伝えられ、のどかは同意していた。ただ、娘を吉村家に送り届けたらすぐに帰るものと思っていたが、予想に反してなかなか帰ろうとしないので、もしかしたらという思いが生まれていた。そのせいで、現実は計画どおりに進行しているにもかかわらず、心細さを感じた。
 自分の心の弱さが、ほんの少し悔しい。

「草太朗さんが迎えにくるまで、私はずっと家にいるから、なにかあったら下まで呼びにきて。トイレは二階にもあるから、自由に使ってね」

 美咲の母親も去る。リビングに通じるドアが閉ざされ、一帯は静寂に満たされた。それに伴って、のどかは状況を客観視できるくらいに冷静さを回復した。
 パパが一時的にいなくなったくらいで、なにをさびしがっているんだろう。中一にもなって。
 ……死に別れたわけじゃあるまいし。

 小さく息を吐き、前方を見据える。
 視線の先、廊下の突き当たりの部屋のドアは固く閉ざされている。
 そこから三メートルほど離れた壁際に、肘掛け椅子がドアのほうを向いて置かれている。プールサイドにでも置いておけば風景になじみそうな、プラスチック製の安っぽい一脚だ。

 椅子は母親が運んだのだろうか。どんな気持ちでこの場所まで持ってきて、置いたのだろう。置くさいには、音を立てないように気を配ったのだろうか。中にいる娘にひと声かけてから置いたのだろうか。自分自身が座ってみて、説得に最適な距離かどうかを確かめたのだろうか。

 ナップザックを肩から外し、椅子に腰を下ろしてから膝の上にそれを置く。わずかに軋む音。
 部屋にいる美咲の耳に届いたかは分からない。ただ、ドア越しにも感じられるだろう人の気配と、去りぎわの美咲の母親の発言から、のどかという名の少女が現在廊下にいる事実は把握しているものと思われる。

 では、姿は?
 ドアに覗き穴などはないようだが、隙間から覗き見ることは可能だろう。説得役が自分よりも年下の少女だと知って、美咲はなにを思うだろう。説得に悪影響を与えないだろうか。
 そもそも、母親とでさえ筆談という手段でしかコミュニケーションをとろうとしない人間が、見ず知らずの人間の言葉に耳を貸すのだろうか?

 背筋を伸ばし、ナップザックの上に行儀よく両手を置き、耳をそばだてる。
 音は聞こえてこない。
 もしかして、息を殺してこちらの出方をうかがっている? まさか、眠っているわけではないとは思うけど。
 不安も緊張もある。ただ、怖いとは思わない。

 ナップザックの口を開け、中からメモ帳とボールペンを取り出す。一端を下唇の下部に添え、ドアの木目を見つめながら少し考えて、おもむろに書きはじめる。

『はじめまして。わたしの名前は武元のどか。「切言屋」という――』
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