グッバイ童貞

阿波野治

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vs千村④

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 敵の動きが止まっていた時間はそう長くはなかった。

「ああああああっ!」

 牛女の奇声が轟いた。植え込みから上半身を引き抜き、素早く立ち上がる。
 被り物の上半分が割れ、鼻から上が露出している。双眸は血走り、ハンドアックスを握り締めた右手は怒りに震えている。

「殺す! お前、殺す……!」

 口元は依然として覆われているため、声は不愉快にくぐもっている。三花は爽やかに微笑んで牛女を手招いた。

「あああっ! 死ねっ! もう死ねぇえええっ!」

 突進してくる。三花は傍らのテーブルに置いてあるグラスを手に取った。三分の一ほど残っていた水を残らず流し込み、敵を目がけてグラスを投げつける。牛女は得物を振るって飛来物を叩き落とし、距離をさらに詰める。三花は進みも退きもしない。ハンドアックスが振りかざされる。

「死ねぁああああああ――っ!」

 三花は口に含んでいた水を牛女の顔に吹きかけた。どこか滑稽な呻き声と共に動きが完全に止まる。三花は瞬時に間合いを詰め、鳩尾に正拳を叩き込んだ――かに見えたが、牛女の左手が際どくも攻撃を防いだ。
 左手は三花の右手を固く掴んで離さない。ハンドアックスを握る右手に力が込め直される。

「死ねえっ! アホがっ!」
「アホはお前だ」

 三花が牛女を手招いた瞬間から走り出していた俺は、真横から飛び蹴りを見舞った。不意を衝かれた体は軽々と宙を飛び、自らが運転してきた軽トラックの荷台の角に側頭部を強打した。
 音で分かる。めちゃくちゃ痛いやつだ。
 吹き飛んだ勢いと比べるとどこか緩慢に、牛女の体が崩れ落ちる。蹴りを食らった衝撃で取り落としたらしく、持ち主が蹴りを食らう直前までいた位置に凶器が転がっている。三花はそれを拾い上げ、血まみれの刃で俺を指した。

「ちょっと、なに邪魔してんの? 空気読め!」
「はあ? 何で俺が怒られるんだ」
「華麗にハイキック決めてノックアウトするつもりだったのに。責任取ってよ、責任!」
「言い合っている場合じゃない! あの女はまだ――」

 二人同時に牛女の方を向く。敵は軽トラックの後部左側のタイヤの程近くで仰向けに横たわっている。軽トラックの荷台の角と牛女の側頭部、両方に血がべったりと付着している。先程まで凶器を握り締めていた右手の五指が微かに動いている。

「三花、どうするんだ?」
「あの女、お姉ちゃんが差し向けた刺客ね。だったら、あたしが取るべき行動は一つ。――殺そう」

 牛女が倒れている方へと歩き出したので、すかさず腕を掴んで引き留めた。研ぎ澄まされた刃のように鋭利な眼差しが俺に注がれる。

「どういうつもり?」
「命を狙われたからって、何も殺さなくてもいいだろ」
「友也は誰かに殺されそうになったことがないから、そんな甘ったれたことが言えるの」
「いや、それなら今日初体験したばかりだ。猫カフェで草刈に」
「ああ、そうだったね。殺したくなったでしょ? 草刈のこと」
「いや、思わなかったね」

 きっぱりと即答。なおかつ、ボールはまだ渡さない。

「頭に血が昇って、過剰防衛みたいなことにはなったけど、殺そうとまでは思わなかったな。微塵も思わなかった」

 三花は反論しかけたが、口を噤んだ。考え込むような顔つきをしたのち、小さく溜息をつく。

「ま、いいか。友也にはお姉ちゃんを殺すのを手伝ってもらうんだから、協力者の意見もちょっとは聞かないとね」
「は? 協力するなんてまだ一言も――っておい!」

 束縛を振りほどいて再度牛女のもとへ。すぐさま追いつき、再び腕を掴もうとすると、「違う、違う」と頭を振る。

「こいつは今のところは殺さない。警察が来る前に運んじゃおう」
「運ぶって、どこへ? 気絶している人間を抱えて?」
「これがあるでしょ、これが」

 微笑み、軽トラックの荷台の縁を掌で叩く。

「三花は車の運転はできるの?」
「軽トラをパクるんだから、ついでに運転手もパクっちゃえばいい。――ちょっと、店員さん!」

 三花が声をかけたのは、自らの左手五・六メートルの地点に座り込んでいる、二十歳前後の女性。中肉中背で、ヘアスタイルはショートボブ。この店の制服を着ているので、ウエイトレスだと一目で分かる。
 ウエイトレスは放心したような顔を晒していたが、呼びかけられた瞬間、満面を恐怖一色に染めた。

「店員さんは車の運転はできる?」
「は、はい。できますが……」

 声が震えていて聞き取りにくかったが、確かにそう答えた。

「うん、好都合。じゃあ悪いけど、この軽トラの運転を頼める? で、あたしが指定する場所まで行って。オッケー?」
「で、でも――」
「返事は『はい』でしょう。ママに教わらなかった?」

 眉間に皺を寄せて睨みつけ、ハンドアックスの刃を突きつける。

「は、はぃい!」

 ウエイトレスは小学生のように元気よく返事し、呆然と座り込んでいたのが嘘のような機敏さで起立、一目散に軽トラックへと走っていく。

「じゃあ、牛女を荷台に載せよう。悪いけど、友也は荷台で牛女を見張ってて。で、あたしは助手席」
「俺が見張り? 何で?」
「あたしは店員さんに指示を出さなきゃいけないし、どうせ二人までしか座れないから」
「だったら仕方ないけど、何か嫌だな」

 今度は三花が「何で?」と問う。

「だって、いつ目を覚ますか分からないし」
「大丈夫、大丈夫。これだけダメージを負わせたんだから、当分起きないでしょ。万が一意識を取り戻したとしても、凶器は取り上げてあるし、手負いだから、友也が負けることはないと思う。それに――」
「それに?」
「意識がない状態だから、やりたい放題だよ。目的地に着くまで好きにしたまえ。あたしが許可する」
「誰がするか」
「あ、でも、触るだけにしてね。本番はなしで」
「だから、しないって」

 吐き捨てた直後、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。三花は表情を引き締める。

「アホなこと言ってないで、さっさと積み込んで、さっさとずらかりましょう」
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