わたしの流れ方

阿波野治

文字の大きさ
32 / 77

琵琶湖の彗星

しおりを挟む
 移動中の記憶は全くないが、とにもかくにも無事に琵琶湖に辿り着いた。死ぬまでに一度は訪れたいと思っていたので、感無量だ。ナポリを見てから死ね、だとか、日光を見ずして結構と言うな、だとか、その類の慣用句が琵琶湖関連でも一つあったはずだが、生憎思い出せない。
 生憎な出来事は続くもので、琵琶湖は濃霧に覆われていて目視できなかった。湖と陸地の境目さえ判然としないのだから、ギネスブック級の濃さと言うべきだろう。間際まで寄れば判然とするかもしれないが、仮に判然としなかった場合のことを思うと、慄然として足が竦む。フェンスが設置されていれば湖に落ちる心配はないが、広大な琵琶湖の全域をカバーしているとは考えにくい。琵琶湖を訪れるのが初めてのわたしにも、そのくらいのことは分かる。
 なんの収穫もなく帰宅するのは悔やまれるので、土産物屋に立ち寄った。店内を物色していると、
「お客さん、お客さん」
 振り向くと、占い師のような身なりの小男が背後に立っていた。人がよさそうだが、どこか胡散臭い笑みを浮かべている。
「お土産の種類が多すぎて、迷われているんでしょう。でしたら、この商品はいかがですか」
 そう言って懐から取り出したのは、円筒形の小瓶。中には虹色の砂が入っている。
「綺麗な砂ですね。それはなんなのですか?」
「彗星の欠片を粉末状にしたものです」
「へえ、彗星の欠片。綺麗なものだと思いますけど、でも、琵琶湖となんの関係が?」
「琵琶湖というのは、あまり知られていませんが、彗星が落下して生じた穴に水が溜まったことで出来た湖なのです。このお土産は、現存する彗星の破片の一部を加工したものになります」
 琵琶湖がある場所に過去に彗星が墜落したという話も、その彗星の破片が現存しているという話も、今までに一度も聞いたことがない。小男は恐らく、出鱈目を言っているのだろう。
 しかし、彗星の破片の粉末の美しさは偽りではない。
「綺麗だから、記念に買おうかな。おいくらですか?」
「ご購入ありがとうございます。■万円になります」
「えっ、そんなに?」
「お客さんの全財産よりは少ないでしょう」
「勿論少ないですけど……。でもそんな大金、財布には入っていないですよ」
 言った直後、ある予感を覚えて財布の中身を確かめると――あった。ちょうど■万円、財布に入っている。
「はい、まいどあり」
 小男は財布から■万円分の紙幣を抜き取り、小瓶をわたしに押しつけ、その場から立ち去った。小首を傾げ、土産物屋から出る。
 するとそこは、電車の車内だった。
 重力が体にのしかかってくる。飛行機が離陸する際に覚えるのにも似た感覚だ。どうやらこの電車は、空へ向かっているらしい。
 いや、あるいは、もっと高い場所へと。
 こうなってしまった以上は、電車が終着駅に到着するのを待つしかない。彗星の小瓶を手に大人しくしていれば、少なくとも、宇宙空間に放出される心配はないはずだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...