わたしの流れ方

阿波野治

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川を渡って

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 もうそろそろだ、もうそろそろだと思いながら歩き続けて、どれくらいの時間が経っただろう。日没までに下山しなければならないというのに、いくら歩いても山から下りられない。
「もう駄目だ」
 思わず弱音を吐いた、次の瞬間、視界が開けた。
 河原だ。上流にしては川幅が広く、清らかな水が速い速度で左から右へと流れている。
 石に躓いて転ばないように注意しながら、川に駆け寄る。手を浸すと、震えるほど冷たい。両の掌を合わせてすくい、飲み干すと、体中に生命力が漲った気がした。
 向こう岸に目を転じる。河原の先には、樹と草が密生する空間が広がっている。根拠はないが、真っ直ぐに突き進めば山から下りられる気がした。幸い、川はさほど深くない。流れの速さを考慮しても、無事に渡り切れそうだ。
 足を浸し、一歩、二歩と前進する。川底の石に付着した藻に足を取られそうになるが、慎重に歩けば大丈夫だ。
 十歩ばかり進んで顔を上げると、向こう岸の水際に、いつの間にか女性が佇んでいる。茶摘みをする人のような服装で、二十代前半だろうか。夏蜜柑が山盛り入った笊を手にしている。
 目が合うと、女性は白い歯をこぼし、手招きをした。
 山に住んでいるのであれば、下山ルートを把握しているはずだ。
 逸る気持ちを抑える。藻に足を滑らせないようにする。二つの意味から、終始一貫、慎重な足運びを心がけて川を渡り切った。
「疲れたでしょう。お一つどうぞ」
 岸に上がるなり、女性は笊を差し出した。食べ物を口にする必要は感じていなかったが、その眩しい笑顔を曇らせるのが嫌で、こちらも笑みを浮かべて一つ手に取り、皮を剥く。
 一房ちぎろうとした瞬間、ちぎろうとした一房の薄皮がひとりでに破れた。顔を覗かせたのは、落ち葉のような体色の蛆虫。体をくねらせ、懸命に外に這い出ようとする。
「食べないんですか?」
 女性が心配そうに顔を覗き込んでくる。夏蜜柑の蛆虫には気がついていないらしい。
「いただきたいのは山々なのですが、疲れすぎて食欲が湧かないのです。ご好意には感謝しますが、今回はご遠慮させていただこうかと……」
 作り笑顔を浮かべて弁明し、笊に夏蜜柑を戻す。女性は頷き、顔に笑みを復活させた。心からの笑みではないように見えた。
「すみませんが、どの道を行けば山を下りられるかを教えていただけないでしょうか。日没までに下山したいのですが、道に迷ってしまって」
 気まずい沈黙を振り払う目的も兼ねて、本題を切り出した。
 女性は頷き、足元に笊を置いた。夏蜜柑の山の頂点の一個を手に取り、皮を剥き始める。
「あの、下山する道は……」
 女性に声をかけたのと、女性が皮を剥き終わったのは、全くの同時だった。皮の内側に収まっていた全ての房の薄皮が一斉に破れ、一房につき一匹ずつ、蛆虫が顔を覗かせた。外に出ようと、踊るように体をくねらせる彼らを、女性はどこか愛おしそうに見つめる。
「道に迷った? 目的地なら、もう着いているじゃない」
 冷ややかな声に、堪らなく嫌な予感を覚え、肩越しに振り返った。清らかだった川の水はいつの間にか毒々しい赤紫色に変色していて、腐臭が鼻を衝いた。
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