わたしの流れ方

阿波野治

文字の大きさ
52 / 77

瀕死の魚

しおりを挟む
 積雪が観測される季節になったにもかかわらず、ソメイヨシノが咲いている。咲く時季が見当外れなら、咲く場所も見当外れだ。ソメイヨシノは、市道の中央分離帯で咲き誇っているのだ。片側二車線、通行する車両が全くない道の、ちょっとした公園のように広い中央分離帯で。
 ソメイヨシノは今がちょうど満開で、後は散りゆくだけ、といった状態に見えた。風が吹き抜けるたびに降り注ぐ花びらのシャワーを浴びながら、車道を横断して樹に近づく。
 裏手に回ると、樹の根本に子供がしゃがんでいた。小学校に入学するかしないかの年齢の男の子だ。昭和初期の裕福ではない家庭の子供、といった身なりをしていて、手元に視線を落としている。
 男児が手にしているのは、魚。体長二十センチほどの、青っぽい鱗の細長い魚だ。時々微かに体を動かしているが、もう長い命ではないように見える。
 男児の足元には、直径三十センチ、深さ二十センチほどの穴が穿たれている。
 魚は土の中から掘り出されたのか。それとも、今から埋めようとしているのか。
「君、その魚、どうしたの?」
 薄気味悪さを感じながらも男児に声をかける。振り向いた。わたしの姿を視界に捉えると、悲しげに眉をひそめ、こう答えた。
「魚は水があるところにいるのが普通でしょ。この魚、水の中に戻してあげないと、死んじゃうよ」
 死という言葉が出た瞬間、男児の顔色の悪さに気がついた。蒼白を通り越して土気色をしている。もしかすると、男児は既に死んでいるのでは?
「おじさんが水のあるところまで案内してあげるから、魚を放してあげるといい。さあ、おいで」
 ついてくるよう手振りで促し、わたしは歩き出す。男児は素直に言いつけに従った。
 このあたりに、川や湖はあっただろうか。そもそも、男児への対応はこれでよかったのだろうか。――彼は死んでいるかもしれないのに。
 悶々としながら歩いていると、不意に周囲の景色が一変した。いつの間にか、わたしたちは漁港にいた。地面に無数に散らばった、漁に使用されると思われる大小の道具の数々。それらを時に踏みつけ、時に踏み越えながら、埠頭の最果てへ。
「さあ、魚を放してあげなさい」
 頷き、男児は魚を海へと投げた。「水の中に戻してあげなければ死んでしまう」と語った思いやりとは裏腹の、ゴミを投げ捨てるような投げ方だった。魚は海中に浅く沈み、すぐさま海面に浮上した。白い腹を上にして、身じろぎ一つしない。
「死んでしまったね。弱っていたから仕方ないとはいえ――」
「どうでもいいよ。帰ろうよ」
 死にゆく魚を思う気持ちと行動の落差、これをどう解釈すればいいのだろう? 気持ちの整理がつかなかったし、無力感を覚えもした。
「帰ろうよ。ねえ、帰ろうよ」
 男児の声に急かされ、漁港を後にする。
 山間の細道をしばらく歩くと、道路脇にかやぶき屋根のみすぼらしい家屋が建っていた。その建物の前で男児の足が止まる。
「お兄ちゃん、じゃあね。またどこかで会おうね」
「君、ここが家だったの?」
「ううん。違うけど、子供は家に帰るものだから」
 寂しそうに微笑み、男児は家の中に入っていった。
 さて、わたしはどこに帰ろう?
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...