堕ちる人魚

中原 匠

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プロローグ

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 ステイ先のホテルの窓からは、眠らない街の灯が見える。
 山岡をそれを横目で見ながら、小さく息をついた。肩に掛かっていた重みを、漸くベッドの上に置いたところだ。
 ここは山岡の部屋では無い。コンビを組んでいる機長の篠原の居室だ。シングルのベッドの上には酔い潰れた篠原が、陸にうちあげられた人魚のようにうつ伏せに転がっていた。
「人魚…ね」
 自分の想像に思わず苦笑する。
 よりによって、こんなでかい男を何故人魚だなどと思ったのか。篠原の身体は程よく筋肉が付いた長身で、華奢には程遠い。容貌にしても、鷲鼻に大きめの口、四角い顎とゴツイ一方だ。
 ただ髪は、黒髪と言うには明るい色をして緩いウェーブがあり、それが顔全体の印象を柔らかくしている。
 実は山岡はこの髪が好きだった。今も気が付けば無意識に指で弄んでいたのだが、当の篠原は一向気付く様子は無い。
 気持ち良さそうに寝息をたてているだけだ。
「……」
 篠原が、泥酔しそのまま寝てしまうのは、何もこれが初めての事ではない。酒を飲みに出れば、結果はいつも同じ。他の客と陽気に騒いだ挙句、気持ちよく寝てしまう。騒ぎすぎて、出入り禁止になった店も何軒かあるぐらいだ。
 定宿にしているホテルのフロントも心得たもので、今夜も酩酊した篠原を抱えて帰ってきた山岡に気の毒そうな笑みを向けて、すんなりと二人分の部屋のキーを渡してくれた。
 ここまで後の事を気にせずに飲めたら、それは気持ちいいだろうとは思う。しかし付き合わされる方は堪ったものではない。
 まったく…と山岡は口の中で呟く。
「ご自分の立場が、解ってらっしゃるんですか?機長…」
 問い掛けに返事は無い。山岡は大きく溜息を吐いた。

 篠原と山岡が共に勤務するミカド航空は、実は二つの顔を持っている。
 民間航空会社としての航空事業と―――――
 そのルートを利用しての非合法な諜報活動と―――――― 
 無論、その事を知っているのは、会社内でもごく少数の者のみに限られる。

 二人ともその少数の中に含まれていた。
 事が事だけに細心の注意が必要だし、また、危険も伴う。いくら用心しても足りないぐらいだと山岡は思っている。それなのに篠原ときたら……
 山岡はまた溜息を吐いた。 
 もしや自分が、この年下の機長とコンビを組む事になったのは、監視するためなのかもしれない…そんな考えが、ふと浮かんだ。
 実は山岡は、秘密裏に内部監査の役割も担っていた。ミカド航空の裏稼業を行っている会長の唯一直属の部下で、命令があれば、該当者を処分する事もある。
 今のところ、そんな命令は無い。
 しかし。
 篠原は元航空自衛隊の戦闘機乗りだっただけあって、腕も度胸も申し分無い。唯、それ故に行動が派手というか、とにかく目立つ。
 そんな彼がボロを出せば、組織全体に危機を及ぼす可能性も無いわけではない。もしやそれを見越しての、人事なのだろうか。
 だとしたら、あまり親しくなりすぎない方が、良いのだろう…
 
 山岡の思索は、そこで途切れた。篠原が小さく身じろぎし、ゆっくりと目を開けたのだ。
「山岡ちゃ…?」
「ここに居ますよ。機長」
 弄んでいた髪を放し、務めて平静に応える。
「水…ですか?」
 微かに頷く篠原に、山岡は備え付けの冷蔵庫の中からミネラル・ウォーターのボトルを出すと、サイドボードに置いた。
「飲めますか?」
「ん…」
 篠原は大儀そうに身を起こすと、何とかベッドヘッドに上半身を預けて座った。その手にキャップを取ったボトルを渡す。
 それを一気に半分ぐらい呷って、篠原は大きく息をついて目を閉じた。
「篠原機長」
「ん…?」
「大きなお世話かも知れませんが…」
「しれませんが…何?」
「アルコールは、少し控えられた方が宜しいんじゃないですか」
「…何故?」
「…それは…貴方ご自身が、ご存知のはずだと思いますが」
「俺…何かヘマしたか?」
「いえ。今のところは」
「だろ?」
 篠原の声に笑みの気配が混じる。
「俺だって、TPOぐらい弁えてるさ。でも今回のステイは完全オフだろ?だから少しぐらい羽目ェ外しても、大目に見て欲しいな」
 少しぐらい…と、山岡は口の中で呟いて、肩を竦める。
「勿論。機長がご自分の足で歩いて帰って下さるなら…ですが」
 自分より背の高い者を支えて歩くのは、大変なのだ。おまけに篠原は癖なのか、すぐ人に抱きついたり、キスしようとする。それを宥めつつ、無事ホテルまで連れ帰るのは楽な仕事では無い。
「別に誰彼構わず…ってワケじゃないぜ」
 自分の癖の事を言われて、篠原は拗ねたように呟く。
「これでも相手は選んでるんだけどなぁ…」
 その言葉と共に、ベッドサイドに立つ山岡の手を取ると、指に口付けした。
「…悪酔いしてますね。機長」
「酔ってない」
「酔っぱらいは皆、そう言います」
「じゃ、いいよ。酔っぱらいで」
 そう言うが早いか、掴んだままの手を引いて、山岡の身体を抱きとめる。
 キスしようと近付いてくる顔を、山岡の手がそっと止める。思いのほか節のしっかりした、長い指だった。
「相手は選ぶんでしょう?」
「だから。選んでる」
「酔った勢いで、ですか?」
「酔ってても、好みは変わんねぇよ」
「それを、酔った勢いと言うんですよ」
 山岡の言葉に、篠原は大袈裟に溜息を吐いて、その身体を放した。
「山岡ちゃん、俺の事嫌いか?」
「そんな事はありません」
「だったらいいじゃないか?」
「そうですねぇ…」
 焦るでもなく、乱れてしまったスーツの皺を直しながら山岡は囁く。
「機長が素面の時でしたら、考えないでもないですがね…」
 笑みを含んだ声で、そう応えた。

 山岡は簡単に部屋の中を片付けていた。
 いつの間にか脱ぎ散らかされた靴を揃え、ソファの背に投げかけたままになっていたレザーの上着をクロゼットにしまう。そんな山岡を、べッドの上に胡坐をかいて座り、拗ねたような顔で篠原が見ている。それを目の端に捕らえて、思わず零れそうになる笑みを必死で堪えていた。

 まったく、この人は…なんという……

 この自由奔放さが羨ましいと思う反面、非常に危うくも感じる。もっと近くに寄りたいと願いながら、危険だと本能が告げる声が聞こえる。山岡の立場からすれば、それは当然の危惧だ。
 しかし篠原は、そんな山岡の葛藤など知らない。
 勿論。たとえ知ったところで何も変わりはしないのは予測できる。
 自分自身に正直に、信じたままに突き進む。そしてそのために何か失う事になったとしても、きっと後悔などしないのだろう。
 そう…恋のために、声を失った人魚のように。
 そして人魚は、その恋に殉じて泡となって消える時も、満足しているのだろうか…?
 山岡は自分の考えに、知らず溜息を吐く。どうやら自分も思いの他酔っているらしい。窓のカーテンを閉め、篠原に就寝の挨拶をして早々に部屋を出た。
 何処までも同じドアの続くホテルの廊下で、山岡は、今、出てきたばかりのドアを振り返った。

 願わくば―――と切に思う。

 人魚を泡に還すのが、我が手では無い事を…と。


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