ザクロ甘いか酸っぱいか

中原 匠

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 宝暦も十余年経ち、十代将軍の御代。
 戦国の世はすでに遠く。
 お江戸は今日も日本晴れである。

 雲ひとつない青い空を、石榴は、久しぶりに馴染みの飯屋の二階の部屋で、布団に寝転がったまま、ぼんやりと見ていた。
 すでに日は高い。
 石榴と書いて「せきりゅう」と読むこの男の姿は、いささか異形だ。
 まず大きい。
 相撲取りのように大きいというのではなく、背ばかりが高い。だからといって、ひょろりとした末成なまなりなすびのようなひ弱さは無かった。
 だらしなく羽織っただけの女物の緋襦袢からのぞく腕は、太く、たくましく。肩幅も広い。胸は厚く、その赤銅色にやけた肌には、いくつもの傷跡があって、この男のこれまでの生き方を表しているようだった。
 中でも目をひくのは長い髪で、黒というには明るい色をしているそれを、月代を剃らず総髪のまま、朱房の紐で無造作にくくっているのだが、真直ぐでは無いその髪は、好き勝手にはねまわり、さながら獅子のたてがみのようになっていた。
 その奔放な髪に縁どられた顔は、太い首に見合う四角い顎に大きな口。尖った鼻と、期待を裏切らない。ただ目は、つり気味ではあったが黒目がちの大きく綺麗な瞳をしていて、どこか愛嬌がある。それがどこもかしこも厳ついこの男の印象を、和らげていた。
 寝ころんだまま、枕元の煙草盆を引き寄せる。煙管を手に取ったところで、階段を上ってくる足音がした。
「まぁだ寝てるのかい」
 呆れた様な声に目を遣ると、細く開いた障子戸の隙間から、若い女が覗いていた。左の目尻に泣きぼくろがある。
この店の商いは飯屋だが、金を払えば、気に入った女中と二階に上がる事もできるのは暗黙の了解になっている。その一番の売れっの、おれんという女だ。
 からりと音をたて障子をあけて入って来ると、石榴が手にした煙管を取り上げて、慣れた仕草で煙草盆で火を点ける。紫煙が細く長く上がる煙管を、斜めに咥えて、うふふ。と笑った。
「ほら、もういいかげんに起きなよ。色男」
「ああ?」 
「外でアンタのいい人が待ってるよ」
「なんだそりゃ?」
 揶揄からかうような声音に急き立てられて、何の話だ?と窓から下を覗いてみる。
 店の前に恰幅のいい商人然とした男が立っていた。一目で拵えの良いとわかる羽織を着た、大店の主という風体だ。それが石榴の姿を見止めると、嬉しそうに手を振ってきた。
「うわっ!」
 石榴は慌てて顔をひっこめると、掻巻かいまきを頭からかぶった。
「何だって、ここがわかったんだ」
「そりゃあ、アンタ目立つからさぁ」
 面白そうに言う、おれんの声に重なるように、階下でやりとりをする声がする。
「まだ、店ぇ開ける時間じゃねぇだろう。なんだって奴を入れンだよ!」
 掻巻の中から怒鳴る石榴に、おれんは安煙草の煙を吐きかると、それはねぇ…と囁いた。
「いつも何やかや肌にいい薬茶なんかくれたりしてさ。ここの女の子たちにも優しくてねぇ。それになんたって金離れが粋でさあ。さすがは巷で評判の大店、薬種問屋文化堂の大旦那だからじゃないかねぇ」
「いつの間に、そんな事を」
「アンタの立ち寄りそうな所には、大方声をかけてるみたいだよぅ。アンタが来たら、知らせてくれってさ。駄賃をたくさんくれるって、そりゃもう、皆、大喜びさ」
「なんだと…」
「いったい、どういう知り合いなんだい?羨ましいねぇ」
「はい。文化堂、善右ヱ門です。お邪魔しますよ」
 のんびりとした口調で言いながら、話題の主は入って来た。汚れの無い足袋の白さが、眩しいくらいだ。そのまま何の躊躇も無く、擦り切れた畳の上に座った。
「探しましたよ。石榴さん」
 やっと見つけましたよ。と言う声は嬉しそうだ。
「それじゃあ、アタシは湯屋に行くから」
 どうそ、ごゆっくり。と笑顔で言い置いて、おれんは出ていった。おかげで真っ昼間の、緋布団敷いた四畳半に男がふたり、取り残される事となった。
 気まずい沈黙が続くなか、善右ヱ門は石榴が潜り込んだ掻巻の横に座り、「良いお日柄ですなぁ」と呟いている。その姿は、さながら昼間の梟のようだ。
 そのあまりの呑気さに、たまらず石榴は掻巻をはねのけた。
「アンタ!なんで、こんな所に来てんだよ!」
「こんな所とは?」
 無邪気に聞き返す善右ヱ門に、石榴は唸り声をあげる。
「ここは、アンタみてぇなもんが、来るところじゃねぇんだよ」
「何故です?」
「何故って…」
 言いたい事はいっぱいあるのだが、どう言えばいいのかわからない。とにかくここは、飯屋という態をとってはいるが、実質は場末の女郎屋だ。こんな所に通っていると噂にでもなったら、商売にさわるのではないだろうか。
 なにしろ善右ヱ門は、大旦那と呼ばれているが、実はそれほど年配というわけではない。石榴より幾らかは上だろうが、まだまだ枯れる歳には思えない。
 そうでなくとも、老いらくの恋などと言って、隠居が外で子供をこさえて、揉め事になるのもままあるのだ。
 そう、思ったままを言ったら、軽く笑われた。
「ほほ。そんな事で落ちるような評判なら、最初から無いも同然でしょう」
 それに。と石榴を指さした。
「あなたを探してたんですよ。そのあなたがここに居る以上、ここに来るのは仕方ないでしょう?」
「う…」
「ところで、お腹空いてません?」
「は?」
「ここに居ては拙いと言うなら、場所を変えましょう。美味い軍鶏鍋しゃもなべを出す店を見つけたんですけどね。ひとりで行ってもつまらないから。今から行きましょうよ」
 そう言って、善右ヱ門はいそいそと立ち上がった。

 なんだかもう。
 おっとりとした語り口に乗せられて、あれよあれよという間に連れて出されていた。
 派手な女物の緋襦袢の上に暗色くらいろの着物を着流して、素足に雪駄をつっかけた石榴と、見るからに仕立ての良い着物を着て、白足袋に草履を履いた商人の二人連れは、非常に目立つ。
 その上、石榴は大きい。連れだって歩く善右ヱ門は、特に小柄というわけではないのに、頭ひとつ違うのだ。道行く者たちが、驚いたような顔で見送っていた。
 離れて歩こうとする石榴に、にこにこと笑いながら、おっとりとした口調で話しかけてくる善右ヱ門には、気にした様子は微塵も無い。
 その物腰は柔らかなくせに押しが強いのは、さすがは遣り手の大旦那というところか。
 ことさら強い視線を感じて振り向くと、いかにもお店者という風体の男が二人、こちらを心配そうに見ていた。なんだ、お供がいるのか。と石榴は薄く笑った。
 この善右ヱ門の店、文化堂は、江戸一との噂も高い薬種問屋だ。
 処方される生薬はとても良く効くと評判で、おまけに値段も良心的ときている。
 客あしらいの上手な男前の旦那以下、対応の良い店の者たちに、訪れる客は引きも切らない。
 いつぞやは店の前に、家紋付きの立派な駕篭が長時間置かれていたとかで、どこぞの藩のお抱えになるのでは、という噂がまことしやかに囁かれているほどだ。
 その評判の生薬の調合をしているのが、大旦那である善右ヱ門らしい。
 旦那衆との寄合いには顔を出さないくせに、山に薬草採りに行くのが好きだという変わり者。
 出入りの業者に任せておけばよいものを、なんとも太平楽なものだと言う、口さがない者たちもいた。
 要するに、石榴が今までかかわった事の無い種類の人間だった。 

 「美味い軍鶏鍋しゃもなべ」を出すという店は、洒落しゃれた造りの二階家だった。川縁にあって船宿も兼ねているようだ。
 店に上がる時、離れて付いてくるお供の二人はいいのかと思ったが、まぁ黙っておいた。
 案内された奥の座敷は、真新しい畳の匂いがした。
「上等なもんだな」
 暗色の着流しの裾を割って、石榴はさっさと腰を下ろすと胡坐をかいて座る。善右ヱ門は自然と上座へ座り、料理と酒を頼んだ。
「どうです?ちょっといい店でしょう」
「アンタの所の寮も、同じ匂いがしてたな」
「匂い?」
「新しい畳の匂いだ」
 ああ…と善右ヱ門は小さく笑みを浮かべた。
「そういえば。あの離れ、ちょうど畳を張り替えたばかりでしたかねぇ。庭に、怪我をしたあなたが倒れていて」
 善右ヱ門は懐かしそうに、にっこりと笑う。
「あン時はすっかり世話になっちまったな。しかしまさか、あんな田舎の生い茂った雑木林が、大店の寮の庭だとは思わなかったぜ」
「あまり手入れをしないもので」
 自然のままがいいんですよ。と呟いた。
「そのせいか、いろんな獣がやってきますけどね」
「俺みたいに傷を負ってか?」
「そういう時もありますねぇ。でも獣は、治療なんかさせてくれませんよ」
 獣ですからねぇ…と残念そうに息をつくと、運ばれてきたお膳に乗った、小ぶりの徳利を手に取って差し出した。
 石榴の盃に酒を注ぎながら、でもあなたは、と続ける。
「治療をさせてくれて。こうして、お酒にも付き合ってくれますけどね」
「治療…ね」
「ええ。治療。ちゃんと傷は塞がったでしょう?」
 酸っぱいモノでも食べた様な顔をする石榴に、善右ヱ門は怪訝そうに問いかけた。
「どこか不具合でも?」
 そんなこたぁねぇが…と、石榴は自分の左脇腹の辺りを手で撫でる。
「まさか布みてぇに、縫われるとは思わなかったがな」
「ちゃんとした蘭学の技術ですよ。あの道具だって、わざわざ長崎から取り寄せた物なんですから」
「そりゃあ御大層なことで」
 確かに。
 もう駄目だと、死を覚悟したほどの傷だった。
 度重なる破落戸ごろつきとの小競合いで、恨みを買っている覚えは有った。
 酔ったところを襲われて、多勢に無勢で深手を負って、無我夢中で逃げていた。
 低い灌木の枝がみっしりと生い茂った藪の隙間に潜り込み、そこで気を失ったのだ。
 とても寒かったのを覚えている。
 夏だったというのに。
「見つけたとき、かなり弱ってましたから心配しましたけど。あなたが丈夫で良かった」 
「まぁ、それだけが取り柄だからな」
「いや。大したものです」
 羨ましい。と善右ヱ門は、しみじみとした口調で言った。
 しばらくすると、焜炉こんろに乗せた鍋にはった割り下が煮立ってきた。そこに仲居が薄く切った軍鶏の肉を、赤身から手際よく入れてゆく。表面だけに火が入った頃合いを見て、大皿に綺麗に盛られた野菜や豆腐を加えていった。
 ふつふつと音がして、軍鶏の煮える良い匂いがする。善右ヱ門は溶き卵の小鉢を受け取とると、あとはこちらで勝手にするからと仲居を返した。
「さあ。煮え過ぎないうちに、頂きましょう」
「おう」
 葱や牛蒡といっしょに煮込まれた軍鶏肉は、さっぱりとして、こりこりとした歯ごたえがある。
「美味いな」
「でしょう。なかなかのものです」
 うふふ。と笑う善右ヱ門は屈託がない。おっとりとした大店の主だ。
 しかし。と石榴は思う。美味い話には裏があるものだ。
「それで?」
「はい?」
「俺に、何の用があって、探してたんだ?」
 そう言って、にやりと口の端をあげた。怪我を治してもらった恩もある。多少の荒事あらごとは引き受けるつもりにはなっていた。
 ああ、そうだった。と善右ヱ門は箸を置く。
「実は私、本草学が好きでしてねぇ。珍しい薬草を探して、よく山野に分け入るのですが、すぐに疲れてしまいましてね」
 その恰幅の良さではそうだろう。と思いつつ、石榴は黙って箸を動かしていた。
「たまぁに、足を滑らせたりして、動けなくなったりするのですけど」
「おいおい。あんた、一人で行くのかよ。誰か連れは?」
「店の者が付いて来てはくれますが、私の趣味に、そうそう付きあわせるのもねぇ」
「趣味って」
 善右ヱ門の店は薬種問屋だ。薬草探しは本業のはずだ。
 そう言うと、ええまぁ、そうなんですけどね。と善右ヱ門はため息をついた。
「それでね。石榴さんに、同行してもらえないかと、思って」
「薬草採りにか?」
「ええ。お願いしますよ。行ける所は、あらかた行き尽してましてね。それ以外の場所というと、いろいろと問題がありそうで」
「問題たぁ、何だ」
「まぁ、獣がいたり?」
「獣」
「山賊が出たり?」
「いったい何処に行く気だ」
「まぁそんなわけで、店の者が出してくれないんですよ。でも石榴さんみたいに、荒事に慣れた人が一緒なら、大丈夫だと思うんです」
 石榴の問いを、あさっりと流し、だから、ね。と善右ヱ門は手を合わせて、石榴を見る。
「駄目ですか?」
「いや。そんな事ならお易い御用だが」
 なるほど用心棒かと、なんだか拍子抜けした。もっと阿漕あこぎな事を、ふっかけられると思っていたのだ。
石榴はがっくりと肩を落とした。
「本当に?良かった。嬉しいです。ああ。もちろん、賃金はお払いますからね」
「お、おう。そうかい」
 どうやら仕事としての話だったようだ。そこはやはり商人あきんどという事か。
「あ。でも」
 ふいに善右ヱ門は、何かを思い出したように眉をひそめる。
「どうした?」
「あなた、住む処が決まってないでしょう。どこに知らせればいいんです?馴染みの口入れ屋も無いみたいだし。用があるたびに、今日みたいに探し回るのは、さすがに手間ですよ」
 ああ…と石榴は肩をすくめた。
「そういうのは、億劫でな」
「女の人の所はいいんですか?」
「ああいう所は、金さえ出せば、余計な詮索せずに泊めてくれる」
 口入れ屋に通すのも、長屋に部屋を借りるのも、いろいろと身の上を晒すことになる。
 特に大家と店子は、親子も同然と言われるほど密接な関係性を持っているのだ。他の店子とも接触無しではいられないだろう。
 石榴のような者には、それがいささか面倒だった。
「でも、それだと費用がかさむでしょうに?」
「まぁその辺はな。用心棒の真似事とか、板場を手伝ったりして稼いでるよ」
「おや。料理ができるんですか」
「見様見真似だがな」
「それはそれは」
 善右ヱ門は楽しそうだ。
「いっそねぇ。あのまま私共の所にいてくれても良かったのに」
「やなこった」
「どうしてです?居心地悪かったですか」
「いいや」
 居たせり尽くせり、居心地が良すぎて怖いくらいだったと身震いする。
「まぁ、あれだ。あんたにあんまり借りを作ると、ロクな事にならねぇ気がするんでな」
「おや」
 善右ヱ門は意外そうな顔で、石榴を見た。
「私のどこが?」
「どこもかしこも、だな」
「いやだなぁ。そんな事ありませんよ」
 心外そうに言いながらも、鍋をつつく顔は笑っている。
 その笑顔が曲者なんだよ。と石榴はため息をついた。



 さくさくと草を踏み、急な斜面を登ってゆく。密生というほどでは無いせよ、木は枝を張り、行く手を阻むように葉をしげらせていた。この山の中を、もう随分と歩いた気がする。
 今日は、約束どおり、善右ヱ門の薬草採りのお供だった。
 恰幅の良い商人然とした善右ヱ門は、思いのほか健脚で、どんどん奥へ奥へと行ってしまう。
「おい。大旦那」
 足に脚絆を巻いて、嬉々として進む善右ヱ門を、石榴は呼び止めた。
「いったん休もうぜ。いくら俺でも、三人担いで帰るのは無理だからな」
「え?」
 振り向くと、共に付いてきた店の者たち三人が、息も絶え絶えになっていた。
「山に入るのは久しぶりで。嬉しくて、つい」
 木々の途切れた、見晴らしの良い場所まで辿り着き、やっと腰を落ち着けると、そんな事を言う。
 艶の良い頬を紅潮させた善右ヱ門は、相変わらず屈託がない。
「健脚だな」
「お恥ずかしい」
「ほどほどにしとけよ」
 石榴が腰にさげていた鉈を手にすると、少し離れたところで、持参した竹筒の水を飲んでいたお供の三人が身構えたのがわかった。町場のお店者にしては、頑強な身体つきをしている。
 これはつまり、石榴を見張るのが目的なのだろう。その気持ちは解らなくもない。いくら大旦那様の口利きとはいえ、どこの馬の骨ともわからない大男を、すぐに信用しろというのは無理からぬ事だ。
 手頃な枝を三本切り落とし、細かい枝をはらって、杖にしろ。と渡すと、驚いたような顔をした。恐る恐る受け取った三人は、顔を見合わせている。何度も見慣れた光景だった。
 気分を変えようと、辺りを見回す。かなり上まで登ったらしく、見晴らしが良い。遠くに光っているのは、海だろうか。
「ああ。舟が行きますね」
 善右ヱ門が横に並んで、額に手をかざす。
「あんたの寮から、そんなに離れてないと思ったんだがな」
「それなら、ここから見えますよ」
 ほら、あそこに。と指をさす先には、山から続くように樹木に囲まれた、屋根の連なりが見えた。
「ところでねぇ、石榴さん」
「なんだ」
「あれは、寮じゃありません。本宅です」
「え?」
「商いも、こっちが本店です」
「はぁ?」
 たしか、薬種問屋「文化堂」は、京橋にあったはずだ。薬種に縁のない石榴でも知っているくらい、評判の大店だ。間違えようもない。
 あの界隈の他の店と比べると、こんじんまりとした造りではあるが、客足が途絶える事は無い。
 そこには病を治すための薬種だけではなく、煎じ薬というよりはもっと手軽な、身体に良いお茶と銘された物もいくつか置いてあって、値段もそれほど高くは無い。それが肌に良いと評判になり、若い娘たちが三々五々買いにくる。おかげで店先はことさら華やかだった。
 しかしあれは単なる出店でみせだと、善右ヱ門は言う。
「京橋の店がか?」
 京橋といえば、日本橋と並ぶ商業地だ。とても活気がある。
 居並ぶ店も大店ばかりで、そうそう簡単に店を出せるものではないだろう。
「商いは、あちらの者に任せてあります。私は、あまり人の多い所は、好きではないのでね」
 だから隠居なのだ、と肩をすくめた。
「いいのか?それで」
「最初は、商いもこちらでしてたのですけれど。まぁ流通の関係もありましてね。京橋の方が荷物を受け取り易いからと、あちらに店を移したようなわけでして」
 薬種には二種類あり、日本でとれるものと、中国が産地で日本に輸入されてくるものがあった。
 中国からのもの、「唐薬種」はすべて大阪の「唐薬問屋」に集められ、そこから薬種中買仲間を通して全国へと送られてくるのだ。
「あー…たしかに、この辺はちょっとなぁ。街道からも外れてるし。商いには向いてねぇかもなぁ」
「ええ。でも山に来るのには、便利ですけどね」
 以前は採取した薬種は、すべて検査を受けなければ販売できない時期もあったらしいが。今はその改会所あらためかいしょも無いと、嬉しそうに話してくる。商いというより、好きな事の話をしているのだとわかった。
 そんな善右ヱ門の話は、無頼に生きている石榴にとっては、まったく新しい事ばかりで、妙にくすぐったい。
 なにしろ石榴は、自分に対する世間の目というものを嫌というほど知っていた。
 でかい図体で、強面で。髪の色も黒くなく、動きがガサツで物を壊す事も多い。
 更に口は重いし、考えるよりも先に手が出てしまう。そんなこんなで、嫌われ者人生を送ってきていた。
 この善右ヱ門のように、ここまで親しく接してくる者など居なかったのだ。
 故に、少々狼狽えている…というのが正直なところだった。
「さて。そろそろ行きましょうか」
 そんな石榴の心情に気づく事も無く、善右ヱ門は、にこにこと声とかけてくる。
「前は、この先で猪に出会いましてね。行くのをあきらめたんですよ」
 事も無げに、そんな事を言う。
「なんだと?」
「でも今日は、石榴さんが居ますから、安心ですね」
「大旦那様!」
「この辺で戻りましょう」
「危のうございますよ!」
 お供の者たちが止めるのも聞かずに、善右ヱ門はさっさと行ってしまう。
「おい!」 
 慌てて追いかける石榴の後を、お供の三人も追いかけてきた。
「あんたンとこの大旦那は、いつもこんなかよ?」
 呆れたように問う石榴に、ええまぁ。といちばん年嵩の番頭だという者が応えるのに、あとの二人も上がる息の中、同意していた。
「大変な主だな」
「ご自分のお好きな事に、正直なだけです」
 石榴の軽口への返事には、敵意は無かった。
「でも、良い方なのです」
「そのようだな」
 同意する石榴の声には、楽しそうな笑みが含まれていた。


 その日の夕餉は、牡丹鍋になったのだった。



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