とある1日の二人

sino

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3話 迷宮の迷い人

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ー1ー

今日の私は迷宮の迷いびとであった。暑い夏の昼下がり。本来ならば家で読書でも貪りながらクーラーの風のもとで涼みたいところではあるのだが、いかんせん私には買わねばならないものがある。太陽が睨みつける中、私は愛用の自転車に跨り、トンネルを抜けた。

国道の長いトンネルを抜けると要塞があった。私の顔が白くなった。漕いでいた足が止まった。4階を優に超える目前の店構えは今回の買い物が如何に私にとって成し難いものであるかを雄弁に語っていた。
「逃げることとは生きることである」とは祖父の言葉だ。勇敢と無謀は違う。かの百獣の王ですら鉄のカラクリの前にひれ伏すのである。
私は生きることに決めた。そのまま自転車のサドルに手をかけたその時である。よく見知った顔に出会った。
「あら、意外ね。貴方もこんな店に来るのかしら。」
彼女は心底驚いた様子でそう言った。私はサドルからそっと手を離した。
「いや、あいにく初めてでね。予想以上の広さに身を引きかけたところさ。」
嘘は言っていない。
「まあ、そうだったの。私が案内しましょうか?」
それは実に魅力的な提案であった。もし私の目当てがアレでなければ彼女の提案をにべもなく受け入れていたであっただろう。
「残念だが、ものがものでね。今回は私一人で頑張ってみるよ。」
そう言った私を彼女は訝しむような目で見つめた。
「そう…それで?どうやって見つけるつもりかしら。」
彼女の問いに私は店内を指差すことで答えた。
「店のことを最もよく知るのは店員だ。ならば彼らに頼めばいい。」
「確実ね。」
「だろう。」
私は笑顔で返した。彼女が見ている手前、怖気付いたとは言えない。私は勇気を持って最初の一歩を踏み出した。

唐突に彼女が肩を小突いた。
「あら、礼拝?」
「…先祖が高山彦九郎でね。」
今にも消えそうな乾いた声で笑う。背中に冷ややかな視線が突き刺さった。
「私が案内するわ。反論は?」
「…いや、助かるよ。」
えもいわせぬ剣幕に私が押された瞬間である。

ー2ー

結局、私は彼女に店案内を願う形となった。この店、詰まるところ文房具店は私がいつも行くような古びた雰囲気とは異なり、ジュエリーショップにも似た華やかな気色を纏っていた。目的のものを探しながらも、つい目が煌びやかな飾りものに移ってしまう。
「それで何を探しに来たのかしら?」
「あ、ああ。ノートが欲しくてね。」
どこか居心地の悪そうにする私を見て、彼女は笑った。
「堂々と歩きなさい。側から見れば不審者よ。」
「ハハハ、そう見えるかい。」
話しているうちに彼女は立ち止まった。思いのほかノートの売り場は近くにあったようだ。
「思ったより近かったでしょう。」
彼女が同意を求めてくる。
「ああ。これでせめてもう半分でも種類が少なければ言うことなしだったね。」
店奥まで敷き詰められたノートの陳列に、私は愚痴をこぼした。
「とにかく種類が多すぎる。私はどれを選べば良いんだ?」
「それを選ぶのを楽しむのよ。」
そう言いながら彼女もノートを手に取っては眺めていた。目的地は同じだったのかもしれない。
ふと彼女の手が止まった。花柄のノートがお気に召したようで手に取って離そうとしない。
「それが気に入ったのか?」
「え?ああ…そうよ。」
言葉とは裏腹に彼女はノートを元に戻した。その理由はすぐにわかった。明らかに値段が高い。確かにノート1冊にこれ程の値段はかけられないだろう。表紙に書かれている可愛らしい絵柄がこの値段になる理由らしい。
私はノートを手に取った。
「しかし君がこんな風のノートを欲しがるなんてね。意外だな。」
「あら、人の趣味に文句を言うなんてマナー違反じゃなくて?」
彼女はそのまま私に背を向けて行ってしまった。どうやら拗ねたようである。彼女の機嫌を直すのは生半可なことではない。
先へと進んで行く彼女を見送ってから、また棚に目を移した。新たな悩み事の代わりに予想以上に早く、買うものが決まったのだ。今はその喜びに浸っていよう。

ー3ー

一通り見終わった後、帰ろうとした矢先、入り口の柱に彼がもたれかかっているのを見つけた。
「やあ、遅かったね。」
彼は笑顔で小さく手を振ってきた。
「あら、よく笑顔でいられるわね。ついさっきの出来事すら忘れてしまうぐらいに、あなたの頭は小さいのかしら?」
少し悪態をついてみる。彼の顔は変わらない。
「祝いの日には笑顔で迎えるのがマナーだろう。」
「祝いって?」
単純な疑問だった。彼は呆気にとられた様子でただ簡潔に答えた。
「今日は君の誕生日じゃないか。」
予想だにしないセリフに私は目に見えるほどに動揺した。当然だが自分の誕生日を忘れていたわけではない。
「どうして…そのことを?」
言った覚えがなかったのだ。何故、彼が自分の誕生日を知っていたのかが分からなかった。
「どうしてって、君が言ったんじゃないか。自分の誕生日が2週間後って。あの雨の日に、君自身がね。」
言われて思い出した。確かに自分はそのことを覚えている。だが感情が理性に追いつかない。
「それでね。君、アレを欲しがっていただろう?買っておいたんだ。」
「待って。」
思わず制止してしまった。彼は小包みに手をかけて止まった。
私は理由を言わなかった。彼は理由を聞こうとはしなかった。
いや正確には言えなかったのだ。彼もまた理由に気づいて敢えて待っているのだ。
しばらく経った。目元を抑えていた右手が湿っていることに気づいた。裾で雫を払い彼の方へ振り返った。彼が先に切り出した。
「プレゼント、貰ってくれないか。」
可愛らしい包装がされたノートが差し出される。視界が滲み始めた。
「貰えないわ、そんな高いもの。」
彼は戸惑ったポーズをとった。
「冗談だろう。男にこんな可愛い装飾のノートを使えって言うのかい。」
言葉に詰まる。そうだとは言えない。
「なかなかに値が張ったんだ。ドブに捨てるには勿体ないだろう。」
「それも…そうね。」
降参だ。彼の手からピンクの小包みを受け取った。1冊のノートの割には重みを感じた。
「異性からものを受け取ったのは初めてよ。」
「私も異性にものを送ったのは初めてさ。」
不意に彼の顔を見てみた。何かを期待する眼差しでこちらを見ていた。
小包みを開けてみる。少し荒くなったが十分に中のものを確認できた。今なら素直に言える気がした。
「嬉しいわ。…ありがとう。」
彼は満面の笑みで応えた。
「どういたしまして。」
いつの間にか日は随分と傾いていた。赤く色づく風景と共に…

…今日の日のことを私は生涯忘れない
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