11 / 18
風影の禁剣
近くて遠い、心の距離
しおりを挟む
徐慧が去って七日が経った。
寂しさはまだ胸の奥にぽつりと残っている。
だが、それに囚われてはいけないと、玲華は師の言葉を胸に、毎日欠かさず稽古を続けていた。
次兄の景雅が夜にこっそりと稽古場を貸してくれることもあり、昼間の限られた時間では足りない分を補うことができた。
夜の帳が降り、稽古場には薪の火がぱちぱちと爆ぜながら灯り、揺れる橙色の光が床に長い影を落としていた。
乾いた砂の匂いと木剣が擦れる音が、静かな夜に溶け込んでいる。
「さあ、もう一本だ」
景雅はゆっくりと構えを取り、木剣を斜めに傾ける。
まるで、次の動きを予測しているかのような静かな構えだった。
玲華は木剣を握り直し、喉の奥で息を飲み込む。
(……次こそは)
夜の冷えた空気の中で、玲華は息を整えながら木剣を握り直した。
――パァン!
互いの木剣が勢いよくぶつかり合い、乾いた音が響く。
玲華は真っ直ぐに斬りかかったが、景雅は難なく受け流す。
そのまま流れるような動きで反撃を仕掛けてきた。
「っ……!」
玲華はとっさに剣を立て、横薙ぎの一撃を受け止める。
だが、景雅の剣圧は重く、力を込めなければ押し切られそうだった。
「悪くない。でも、まだ甘い」
景雅が一歩踏み込む。
足運びとともに木剣が滑らかに弧を描き、玲華の脇を狙う。
玲華は瞬時に身体を沈め、その攻撃を紙一重でかわした。
すぐさま体勢を立て直し、低い位置から跳ね上げるように木剣を振る。
「ほう」
景雅が僅かに目を見開いた。
玲華の剣は景雅の肩を捉えそうになったが、直前で避けられ、すぐさま剣の腹で玲華の腕を打ち払われた。
「くっ……!」
その衝撃にバランスを崩し、玲華はぐらりと揺れる。
景雅は隙を逃さず、木剣を首元に突きつけた。
「……ここまでだな」
言葉と同時に木剣を下ろし、ほっと息をつく。
稽古場に静寂が訪れ、火の灯りが揺らめいた。
玲華の指先はまだ震えていたが、その感覚を確かめるように拳をぎゅっと握った。
「玲華、お前の剣、徐慧と出会う前より格段に伸びてるな」
景雅の言葉に、玲華は肩で息をしながら小さく頷く。
だが、その胸にはまだ言葉にできない焦燥が残っていた。「けど、なんか力んでたな」
景雅は木剣を背負いながら、玲華の顔を覗き込む。
「いや、焦ってた、っていう方が正しいか?」
「……」
玲華は無言のまま、足元に目を落とした。
確かに、妙な焦りがあった。
頭では冷静になれと言い聞かせているのに、どこか落ち着かなかった。
「お前、最近ちょっと顔が暗いな」
「え?」
思わぬ言葉に、玲華は驚いたように顔を上げた。
「まだ、徐慧と別れたことが気になるのか?」
景雅は、薪の火がちらちらと揺れる中、玲華の顔を探るように覗き込んだ。
「ううん、そうじゃないの」
玲華は軽く首を振る。
「確かに寂しいけど、それは仕方がないってわかってる。そうじゃなくて……凌のことなの」
景雅の眉がわずかに動く。
「凌?」
「うん……ここのところ、凌と話せてないの。話そうとしても、避けられてるみたいで」
握りしめた拳が、ぎゅっと強くなる。
「喧嘩したのか?」
「ううん、してない。ただ、なんか……話ができなくて。部屋に行っても、疲れてるからって入れてももらえなくて」
言葉を口にするたびに、不安がゆっくりと大きくなっていくのを感じる。
「それに……最近、そのおかげでずっと男装してないの」
ふ、と景雅が微かに唇を噛んだ。
「……それなら、俺から聞いてみるか?」
しばし考えた末に提案するが、玲華は即座に首を横に振った。
「ううん、大丈夫。自分で何とかするよ」
「……そうか」
景雅はそれ以上は言わなかったが、どこか複雑な表情を浮かべていた。
◆ ◆ ◆
次の日。
朝食の席には、家族が全員そろっていた。
広々とした食堂には、朝の光が窓から差し込み、白木の床を柔らかく照らしている。
食卓の上には湯気を立てる粥、漬物、干し魚、豆腐の味噌汁が並べられ、香ばしい匂いがほのかに漂っていた。
「今日も暑くなりそうだな」
長兄・烈英が呟きながら茶を啜る。
その隣で次兄の景雅が軽く頷いた。
「暑さで食欲が落ちると困るな」
景雅が箸を置きながら言うと、母・華桜が微笑んだ。
「こういう時こそ、しっかり食べないとね」
「王都からの使者が、また今日来る」
食卓の端で、父・雷怕が低い声で告げた。
その言葉に、一瞬、場が引き締まる。
「もう対応の準備は済んでいるのか?」
烈英が眉を寄せながら問いかけると、雷怕はゆっくりと湯呑みを置いた。
「すでに役人たちには伝えてあるが、今回は王都からの正式な文書を持ってくるとのことだ。余計な混乱が起こらぬよう、早めに向かう」
「そうか……なら、私も警備の配置を見直しておく」
烈英が真剣な表情で頷く。
彼は藍都の防衛を担う要職についており、王都からの使者が来るとなれば、その警備も厳重にしなければならない。
「早めに行くぞ、父上。私も警備のために準備があるので、途中まで一緒に向かおう」
「うむ、それがいい」
雷怕は短く頷き、再び粥に手をつける。
静かに進む食事の時間の中で、凌の様子がどこか落ち着かないように見えた。
玲華は、その横顔をちらりと盗み見る。
何か話したいけれど、言葉が出てこない。
その間にも、凌はいつもより早く箸を置き、そっと茶を飲み干した。
「ごちそうさま」
短くそう言うと、彼はすっと立ち上がる。
玲華は、その背を見送った後、すぐに立ち上がる。
――今日こそは、絶対に話す。
給仕たちが食器を片付ける音、兄や姉たちの足音。
けれど、そんなものは今の玲華の耳には入らなかった。
食堂を出たところで、ちょうど凌の姿が目に入る。
迷わず、その腕を掴んだ。
「凌!」
驚いたように振り向く凌の手をしっかりと握る。
思わず逃げようとするその動きを逃さず、そのまま引っ張った。
「ちょっ……!」
抵抗しようとする凌の力を振り切り、自室へと連れて行く。
(ここからは、もう逃がさない)
戸を閉め、二人きりになった部屋。
しんとした静寂が降りる。
窓から差し込む朝の光が、部屋の床に長い影を落としていた。
玲華は、真正面から凌と向き合った。
深く息を吸い込む。
「……何で避けてるの?」
玲華の声が、静かな部屋に響いた。
凌は小さく肩を揺らし、視線を落としたまま答えない。
「私、何かした?」
玲華はさらに一歩近づく。
すると、凌は僅かに眉を寄せた。
「別に。何もしてない」
その言葉は、ひどく乾いていた。
「何もしてないなら、何で避けるのよ!」
玲華の声が大きくなる。
その瞬間、凌の肩が跳ねた。
「避けてるつもりは……」
「避けてるっ!!」
声を荒げると、凌はぎゅっと拳を握る。
それを見て、玲華の胸に張り詰めた感情がさらに膨らんだ。
抑えきれず、声が荒くなる。
その瞬間、凌の肩がわずかに揺れた。
朝の光に照らされた彼の横顔が、一層沈んで見える。
凌はゆっくりと息を吸い込み、そして、ぽつりと吐き出した。
「玲華が悪いんじゃない。私が悪いんだ」
玲華は、反射的に言葉をのみ込む。
胸の奥が、ざわりとざわめいた。
「……どういうこと?」
小さく問い返すと、凌は静かに続けた。
「玲華のことが……うらやましくて」
「え……?」
意外な言葉に、玲華は少し目を見開いた。
凌は、どこか遠いものを見るように壁を見つめていた。
朝の光が薄く差し込む部屋の中、彼の横顔には淡い影が落ちている。
その瞳はどこか虚ろで、焦点が合っていないように見えた。
「私は、こうだろ」
ぽつりと呟くように言いながら、凌は自嘲するように笑った。
だが、その笑みはどこか歪んでいて、決して楽しげなものではない。
「男なのに、武術の才がない」
そう言うと、彼の細い指が無意識に膝の上で握られる。
爪が皮膚に食い込むほど強く、けれど、それでも抑えきれない感情が内側から滲み出しているようだった。
玲華は、じっとその様子を見つめた。
そして、静かに口を開く。
「でも、凌は私が持ってないものを持ってるじゃない」
優しく言ったつもりだった。
だが、凌の肩がぴくりと震える。
「……何を?」
かすれた声が漏れた。
「手先が器用で、字も達筆だし、頭もいい。政治や兵法だって得意じゃない」
玲華は、一歩前に出る。
けれど、凌はわずかに顔を背けるように目を伏せた。
「でも……男としては駄目なんだ」
その言葉には、どこか滲むような悲しみがあった。
まるで、自分で自分を否定し続けるような、深い苦しみ。
「戦えないと、駄目なんだよ」
壁を見つめる瞳が、かすかに揺れる。
肩が少しだけ落ち、凌の指がゆっくりと緩んでいく。
だけど、それは決して安堵ではなく、ただ力が抜けてしまっただけのように見えた。
玲華の眉がひそまる。
「そんなこと言うなら、私だって……!」
琴も刺繍も苦手だ。
作法だって、周りの姉たちのように優雅にはできない。
女性らしく振る舞うことも、正直、得意ではない。
思わず言いかけたその言葉。
けれど、凌の声がそれを遮った。
「だから、ごめん」
凌の声は、驚くほど静かだった。
「だから……ごめん」
凌の声は、驚くほど静かだった。
「これは……私の心の問題なんだ」
張り詰めた空気の中で、玲華は息をするのを忘れそうになった。
窓の外から、微かに風の音が聞こえる。
凌の瞳はどこか遠くを見ていて、まるで何かを押し込めるように曇っていた。
しんとした沈黙が流れ、窓の外から風の音が微かに聞こえた。
凌の瞳は、まるで何かを押し込めるように曇っている。
その表情を見て、玲華の胸がぎゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
「凌……」
玲華が手を伸ばしかけたその瞬間、凌は、ほんのわずかに、けれどはっきりと身を引いた。
「……っ!」
玲華の胸の奥が、ぐしゃりと音を立てた気がした。
拳がぎゅっと固く握られる。
「そんなの……納得できるわけないでしょ!!」
玲華の声が震え、抑えていた感情が一気に溢れた。
「どうしてそんな顔するの!? どうして、そんなふうに言うの……」
涙がこみ上げるのを必死に堪えながら、拳をぎゅっと握る。
だが、凌は答えなかった。ただ、静かに目を伏せるだけだった。
これ以上、言葉を交わしても無駄だ。
そう悟った瞬間、玲華は勢いよく戸を開け、部屋を飛び出した。
寂しさはまだ胸の奥にぽつりと残っている。
だが、それに囚われてはいけないと、玲華は師の言葉を胸に、毎日欠かさず稽古を続けていた。
次兄の景雅が夜にこっそりと稽古場を貸してくれることもあり、昼間の限られた時間では足りない分を補うことができた。
夜の帳が降り、稽古場には薪の火がぱちぱちと爆ぜながら灯り、揺れる橙色の光が床に長い影を落としていた。
乾いた砂の匂いと木剣が擦れる音が、静かな夜に溶け込んでいる。
「さあ、もう一本だ」
景雅はゆっくりと構えを取り、木剣を斜めに傾ける。
まるで、次の動きを予測しているかのような静かな構えだった。
玲華は木剣を握り直し、喉の奥で息を飲み込む。
(……次こそは)
夜の冷えた空気の中で、玲華は息を整えながら木剣を握り直した。
――パァン!
互いの木剣が勢いよくぶつかり合い、乾いた音が響く。
玲華は真っ直ぐに斬りかかったが、景雅は難なく受け流す。
そのまま流れるような動きで反撃を仕掛けてきた。
「っ……!」
玲華はとっさに剣を立て、横薙ぎの一撃を受け止める。
だが、景雅の剣圧は重く、力を込めなければ押し切られそうだった。
「悪くない。でも、まだ甘い」
景雅が一歩踏み込む。
足運びとともに木剣が滑らかに弧を描き、玲華の脇を狙う。
玲華は瞬時に身体を沈め、その攻撃を紙一重でかわした。
すぐさま体勢を立て直し、低い位置から跳ね上げるように木剣を振る。
「ほう」
景雅が僅かに目を見開いた。
玲華の剣は景雅の肩を捉えそうになったが、直前で避けられ、すぐさま剣の腹で玲華の腕を打ち払われた。
「くっ……!」
その衝撃にバランスを崩し、玲華はぐらりと揺れる。
景雅は隙を逃さず、木剣を首元に突きつけた。
「……ここまでだな」
言葉と同時に木剣を下ろし、ほっと息をつく。
稽古場に静寂が訪れ、火の灯りが揺らめいた。
玲華の指先はまだ震えていたが、その感覚を確かめるように拳をぎゅっと握った。
「玲華、お前の剣、徐慧と出会う前より格段に伸びてるな」
景雅の言葉に、玲華は肩で息をしながら小さく頷く。
だが、その胸にはまだ言葉にできない焦燥が残っていた。「けど、なんか力んでたな」
景雅は木剣を背負いながら、玲華の顔を覗き込む。
「いや、焦ってた、っていう方が正しいか?」
「……」
玲華は無言のまま、足元に目を落とした。
確かに、妙な焦りがあった。
頭では冷静になれと言い聞かせているのに、どこか落ち着かなかった。
「お前、最近ちょっと顔が暗いな」
「え?」
思わぬ言葉に、玲華は驚いたように顔を上げた。
「まだ、徐慧と別れたことが気になるのか?」
景雅は、薪の火がちらちらと揺れる中、玲華の顔を探るように覗き込んだ。
「ううん、そうじゃないの」
玲華は軽く首を振る。
「確かに寂しいけど、それは仕方がないってわかってる。そうじゃなくて……凌のことなの」
景雅の眉がわずかに動く。
「凌?」
「うん……ここのところ、凌と話せてないの。話そうとしても、避けられてるみたいで」
握りしめた拳が、ぎゅっと強くなる。
「喧嘩したのか?」
「ううん、してない。ただ、なんか……話ができなくて。部屋に行っても、疲れてるからって入れてももらえなくて」
言葉を口にするたびに、不安がゆっくりと大きくなっていくのを感じる。
「それに……最近、そのおかげでずっと男装してないの」
ふ、と景雅が微かに唇を噛んだ。
「……それなら、俺から聞いてみるか?」
しばし考えた末に提案するが、玲華は即座に首を横に振った。
「ううん、大丈夫。自分で何とかするよ」
「……そうか」
景雅はそれ以上は言わなかったが、どこか複雑な表情を浮かべていた。
◆ ◆ ◆
次の日。
朝食の席には、家族が全員そろっていた。
広々とした食堂には、朝の光が窓から差し込み、白木の床を柔らかく照らしている。
食卓の上には湯気を立てる粥、漬物、干し魚、豆腐の味噌汁が並べられ、香ばしい匂いがほのかに漂っていた。
「今日も暑くなりそうだな」
長兄・烈英が呟きながら茶を啜る。
その隣で次兄の景雅が軽く頷いた。
「暑さで食欲が落ちると困るな」
景雅が箸を置きながら言うと、母・華桜が微笑んだ。
「こういう時こそ、しっかり食べないとね」
「王都からの使者が、また今日来る」
食卓の端で、父・雷怕が低い声で告げた。
その言葉に、一瞬、場が引き締まる。
「もう対応の準備は済んでいるのか?」
烈英が眉を寄せながら問いかけると、雷怕はゆっくりと湯呑みを置いた。
「すでに役人たちには伝えてあるが、今回は王都からの正式な文書を持ってくるとのことだ。余計な混乱が起こらぬよう、早めに向かう」
「そうか……なら、私も警備の配置を見直しておく」
烈英が真剣な表情で頷く。
彼は藍都の防衛を担う要職についており、王都からの使者が来るとなれば、その警備も厳重にしなければならない。
「早めに行くぞ、父上。私も警備のために準備があるので、途中まで一緒に向かおう」
「うむ、それがいい」
雷怕は短く頷き、再び粥に手をつける。
静かに進む食事の時間の中で、凌の様子がどこか落ち着かないように見えた。
玲華は、その横顔をちらりと盗み見る。
何か話したいけれど、言葉が出てこない。
その間にも、凌はいつもより早く箸を置き、そっと茶を飲み干した。
「ごちそうさま」
短くそう言うと、彼はすっと立ち上がる。
玲華は、その背を見送った後、すぐに立ち上がる。
――今日こそは、絶対に話す。
給仕たちが食器を片付ける音、兄や姉たちの足音。
けれど、そんなものは今の玲華の耳には入らなかった。
食堂を出たところで、ちょうど凌の姿が目に入る。
迷わず、その腕を掴んだ。
「凌!」
驚いたように振り向く凌の手をしっかりと握る。
思わず逃げようとするその動きを逃さず、そのまま引っ張った。
「ちょっ……!」
抵抗しようとする凌の力を振り切り、自室へと連れて行く。
(ここからは、もう逃がさない)
戸を閉め、二人きりになった部屋。
しんとした静寂が降りる。
窓から差し込む朝の光が、部屋の床に長い影を落としていた。
玲華は、真正面から凌と向き合った。
深く息を吸い込む。
「……何で避けてるの?」
玲華の声が、静かな部屋に響いた。
凌は小さく肩を揺らし、視線を落としたまま答えない。
「私、何かした?」
玲華はさらに一歩近づく。
すると、凌は僅かに眉を寄せた。
「別に。何もしてない」
その言葉は、ひどく乾いていた。
「何もしてないなら、何で避けるのよ!」
玲華の声が大きくなる。
その瞬間、凌の肩が跳ねた。
「避けてるつもりは……」
「避けてるっ!!」
声を荒げると、凌はぎゅっと拳を握る。
それを見て、玲華の胸に張り詰めた感情がさらに膨らんだ。
抑えきれず、声が荒くなる。
その瞬間、凌の肩がわずかに揺れた。
朝の光に照らされた彼の横顔が、一層沈んで見える。
凌はゆっくりと息を吸い込み、そして、ぽつりと吐き出した。
「玲華が悪いんじゃない。私が悪いんだ」
玲華は、反射的に言葉をのみ込む。
胸の奥が、ざわりとざわめいた。
「……どういうこと?」
小さく問い返すと、凌は静かに続けた。
「玲華のことが……うらやましくて」
「え……?」
意外な言葉に、玲華は少し目を見開いた。
凌は、どこか遠いものを見るように壁を見つめていた。
朝の光が薄く差し込む部屋の中、彼の横顔には淡い影が落ちている。
その瞳はどこか虚ろで、焦点が合っていないように見えた。
「私は、こうだろ」
ぽつりと呟くように言いながら、凌は自嘲するように笑った。
だが、その笑みはどこか歪んでいて、決して楽しげなものではない。
「男なのに、武術の才がない」
そう言うと、彼の細い指が無意識に膝の上で握られる。
爪が皮膚に食い込むほど強く、けれど、それでも抑えきれない感情が内側から滲み出しているようだった。
玲華は、じっとその様子を見つめた。
そして、静かに口を開く。
「でも、凌は私が持ってないものを持ってるじゃない」
優しく言ったつもりだった。
だが、凌の肩がぴくりと震える。
「……何を?」
かすれた声が漏れた。
「手先が器用で、字も達筆だし、頭もいい。政治や兵法だって得意じゃない」
玲華は、一歩前に出る。
けれど、凌はわずかに顔を背けるように目を伏せた。
「でも……男としては駄目なんだ」
その言葉には、どこか滲むような悲しみがあった。
まるで、自分で自分を否定し続けるような、深い苦しみ。
「戦えないと、駄目なんだよ」
壁を見つめる瞳が、かすかに揺れる。
肩が少しだけ落ち、凌の指がゆっくりと緩んでいく。
だけど、それは決して安堵ではなく、ただ力が抜けてしまっただけのように見えた。
玲華の眉がひそまる。
「そんなこと言うなら、私だって……!」
琴も刺繍も苦手だ。
作法だって、周りの姉たちのように優雅にはできない。
女性らしく振る舞うことも、正直、得意ではない。
思わず言いかけたその言葉。
けれど、凌の声がそれを遮った。
「だから、ごめん」
凌の声は、驚くほど静かだった。
「だから……ごめん」
凌の声は、驚くほど静かだった。
「これは……私の心の問題なんだ」
張り詰めた空気の中で、玲華は息をするのを忘れそうになった。
窓の外から、微かに風の音が聞こえる。
凌の瞳はどこか遠くを見ていて、まるで何かを押し込めるように曇っていた。
しんとした沈黙が流れ、窓の外から風の音が微かに聞こえた。
凌の瞳は、まるで何かを押し込めるように曇っている。
その表情を見て、玲華の胸がぎゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
「凌……」
玲華が手を伸ばしかけたその瞬間、凌は、ほんのわずかに、けれどはっきりと身を引いた。
「……っ!」
玲華の胸の奥が、ぐしゃりと音を立てた気がした。
拳がぎゅっと固く握られる。
「そんなの……納得できるわけないでしょ!!」
玲華の声が震え、抑えていた感情が一気に溢れた。
「どうしてそんな顔するの!? どうして、そんなふうに言うの……」
涙がこみ上げるのを必死に堪えながら、拳をぎゅっと握る。
だが、凌は答えなかった。ただ、静かに目を伏せるだけだった。
これ以上、言葉を交わしても無駄だ。
そう悟った瞬間、玲華は勢いよく戸を開け、部屋を飛び出した。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さくなって寝ている先輩にキスをしようとしたら、バレて逆にキスをされてしまった話
穂鈴 えい
恋愛
ある日の放課後、部室に入ったわたしは、普段しっかりとした先輩が無防備な姿で眠っているのに気がついた。ひっそりと片思いを抱いている先輩にキスがしたくて縮小薬を飲んで100分の1サイズで近づくのだが、途中で気づかれてしまったわたしは、逆に先輩に弄ばれてしまい……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる