旅記:函館ひとり旅

日野

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1日目

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「......」

 無言でコートを脱ぐ。今年の九月末に買って、初めて下ろしたコートだ。オフィスの入り口にあるハンガーにそいつを引っ掛けながら、僕は少し不機嫌を感じていた。

 今朝はいつも使っている路線が混み合い、山手線もそれなりの混雑だった。僕は朝からスーツケースを転がし、なんだか憂鬱な気分で通勤していた。

 昔から人混みが嫌いなのだ。そして、一人が好きなのだ。

 にもかかわらず、都内の大学を選んだのも、都内の企業への就職――しかも出版社で、しかも編集者として——を決めたのも僕自身だった。僕は本来、なるべく人と関わるような仕事はしたくないはずだった。なのに、あまつさえ編集者なんかにならなくてもと、自分でも思う。

 僕が編集者になったのは、本が好きという以外には、大した理由がない……と思う。僕は人とのコミュニケーションやきめ細かなマネジメントは不得意だし、他人の仕事に口を出すのもあまり好きじゃない。作家も編集部もみんなやりたい仕事をして、結果それで丸く収まればいいじゃないか、と思う。でも、編集者は残念ながら、文章にもデザインにもけちをつけて、偉そうに上から目線でものを言う。それが仕事だから仕方ない。先輩たちも皆、そんな人ばかりだ。外野にいて、常に安全圏から石を投げる。それは僕のなりたくない姿であって、――でも喜ぶべきか悲しむべきか――僕にはその適性があると思う。それがたまらなく嫌だ。僕はもっと正しく、優しく、清潔に生きていたいと思う。

 それでも、同僚たちに尊敬できる部分がないわけじゃなかった。僕は周囲の編集者の人付き合いの良さや、知識の豊富さに触れては、いつもひっそりと傷ついていた。つくづく向いてない仕事を選んでしまったなと思う。
 それでもこの仕事にしがみつくのは、好きなことを仕事にしているという意味のないプライドを守り、虚勢を(僕自身に対して)張って生きるためだったかもしれない。とにかく僕はあるがままに現実を委ね、やって来る人を受け入れ、去る者を追わず、流れるままに生きている。

 東京はここ一週間ほど冷え込む日が続いていた。すっかり秋も深まり、もう冬が来るのだという気がする。そんな寒さが一段と深まる頃、僕は初めてもらった有給を使い、一人きりで旅行に出ることにしたのだ。

 目的地は函館だった。なぜ函館なのかというと――実はあまり深く考えずに決めた。
 ただ、去年行った札幌旅行が楽しかったのと、とにかく遠く離れた場所に行きたいという気持ちだった。今年からひとり暮らしを始めた僕は、なんでも一人で決めて、一人で行動する癖がついていた。特に誰に相談するでもなく、ふらっと旅に出ることを決めたのだ。でも、計画と呼べるほどのものは何もなかった。どうせ一人なのだ。一日ホテルで寝ていたって怒られるわけじゃない。僕はきっと自分のことを知る人がいない遠い地へ、ただ遠くへ離れた場所へ行きたかったのだ。

 今日は午後に半休をとっている。明後日の日曜日には戻ってくる予定だ。本当なら金曜日は丸々休暇としたかった。だが、最近の僕はやはり多忙で、仕事を丸一日休むなんてことはできなかった。それでも午後に帰れるように、昨日までに散々残業した(今週僕は家に帰っても午前三時まで校正していた……!)。

 衣服しか入っていない、特に大事でもないスーツケースは、会社の最寄駅前のコインロッカーに預けて来た。コートを会社で脱いで、やっと身軽になった僕は自分のデスクに座り、今日こなさなければならない、憂鬱なタスクをメモ帳に書き出していった。

 プルルル……と編集部の電話が鳴り始める。僕は歯ぎしりをする。電話応対は、新入社員の仕事である。そして、午前中に出勤している数少ない新人たる、僕に課された必須業務であった。
 僕はため息を吐きながら、本日の仕事を開始した……

 ◇

 仕事が終わったのは、十五時だった。せっかくの有給だったのに、三時間の残業に侵食された。僕は「ろくでもないな、この会社は」と思いながら逃げるように退社した。ただ、僕のOJTのF先輩の「楽しんできなよ」という言葉には、少しは楽しんでやろうかなという気持ちになった。
 たぶんバイクと飲み会(特に女の子との)が好きな先輩は、余計なお世話だけれど、インドアな僕を本気で心配していたのだろう。

 僕は駅前でスーツケースを回収すると、山手線に乗って品川駅まで向かった。昼下がりの山手線は、隙間こそあれど少々人が多かった。僕は彼等の顔を努めて見ないようにし、なるべく航空機や観光情報を見ながら移動していた。山手線から一度乗り換えて、羽田空港の第二ターミナルのある駅へ向かう。羽田の駅に着いてみると、思っているよりも会社員が多い。出張だろうか。
 僕には出張というものがない。デスクに朝から晩まで(ときには終電間際まで)へばりついている。どちらが良いかは、到底判断がつかない。でも、そういう生き方は僕向きじゃないと思う。僕に向いている職業としてよく思い浮かべるのは、山奥に籠もって、愛好家からの依頼でのみ鉄を打つ鍛冶職人の姿だ。僕は自分の生活と、自分の仕事とのみ向き合い、誰からも口出しされず、誰からも人間として愛されず、仕事を愛し、仕事に愛されることをのみ望んでいる。それはきっと東京では為し得ないんじゃないかと思う。だから、僕は山奥に籠って、誰からも干渉されずに一人で生きていくことを望んでみる。これはあくまで非現実的な想像として。

 羽田の駅から通路をだいぶ歩き、第二ターミナルの二階に着いた。高い天井で、案内板や電光掲示板があちこちに付けられ、様々な職業や国籍の人々が行き交う。本当に着いてしまったなと思う。
 スーツケースを転がしながらエスカレーターや動く歩道を何度も通過して来たから、体力のない僕はそれだけで一苦労だった。辺りを見回すと、手荷物検査前の入場ゲートがあるロビーは大変に混雑していた。僕はとりあえず適当な椅子にでも座ろうと思ったのだが、空席など一つとしてない。サラリーマン、家族連れ、修学旅行生……目眩がするほど人でごった返していた。
 そんなものかなと思って、往来の端にある十六時を指す柱時計の下に立ち、荷物の預入れカウンターの方を確認した。チェックインはオンラインで済ませているけれども、手荷物はこれから預ける。僕は、飛行機に乗るのは実は三回目だから、荷物の預け方に自信がない。
 他の人がスムーズに荷物を機械に入れていくのを見て、僕はちょっと緊張した。たぶん、チェックイン時に表示されたQRコードを使うのだ。僕はスマホの画面をチェックしながら、たぶん大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 カウンターの前に行くと、ちょうど全ての預け入れ機が埋まっているところだった。僕はのんびり待つことにした。十八時半発のフライトに乗るから、どうせ時間は余っているのだ。
 すると、僕が待っている所の前に、スーツケースを持った大柄な男が立って、空いた預け入れ機を使い始めた。
 普段の僕なら、その順番抜かしに多少いらいらしていたかもしれない。預け入れカウンターは横に広いから、わざわざ僕の前に立たなくても良いはずなのだ。
 でも、そのときの僕は特に腹を立てなかった。僕は気が付かないうちに、会社でのストレスなどさっぱり忘れ、大らかな気分を取り戻していたのだった。それはたぶん、普段訪れない空港の雰囲気に、子供のごとくわくわくしているのだろう。柄にもなく。

 僕は、彼の次に空いた預け入れ機に荷物を預けた。不器用な僕は、荷物のラベルを綺麗に貼るのに失敗して皺を付けてしまった。僕はまあいいやと諦めて、控え券を出してリュックサック一つで歩き出した。
「いってらっしゃいませ」とその場にいた若い女性の係員に言われる。僕は軽く会釈をして、さっきまでの僕を見ていたのだろうな、と思った。
 すると少し恥ずかしいような気持ちになった。順番を気にしないところや、荷物のタグを綺麗に付けられないところを、――つまりは僕のなんだか間抜けで格好つかない部分を、彼女は内心くすくす笑っていただろう。
 僕は、でもどうせ彼女とはもう二度と会わないのだと思い直し、身軽な気分で空港を散策することにした。「旅の恥は搔き捨て」という言葉は、僕が旅行に行くたびに思い出す言葉だ。僕は、ここでは僕としての人格を与えられてない、ただの観光客なのだから。

 ◇

 しばらくのち、僕は手荷物検査を通過して、ラウンジでフライトを待っていた。ラウンジは、ロビーの三階にあり、大部分がガラス張りのカフェのような場所だった。ただ、ほとんどは一人で来ているようで、スマホやノートパソコンを使って黙々と何か作業をしている。ロビーとは違って、ここはとても静かだった。僕は好ましく感じた。
 一人掛けのソファー席が埋まっているのを見ると、僕はガラスに面したカウンター席へ座った。空港内の景色が見渡せる。飛行機がのっそりと場内を動いているのを眺めることができた。
 僕はイヤホンをつけてスマホを横向きにし、アニメの「俺ガイル」を観はじめた。なぜかそのときの僕は、昼食をとっていないことを忘れていた。紙コップに注がれたカルピスサイダーを飲みながら、空腹などつゆ知らず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 時刻が十六時から十七時に変わるうちにも、空はみるみる暗くなっていった。
 僕は目でぼうっとアニメを観ながら、頭は僕の抱える問題について考えていた。僕の抱える問題とは、すなわち「孤独」の一言に集約されるのだった。
 殊に恋愛問題――僕はそのことを考えるたびに、途端に気分が塞いだ。
 僕の人生は、出口の見えないトンネルを手探りで歩いているようなものだった。出口は本当にあるのか、あるとすればどれくらい先にあるのか、それすらも知らない。恐らく前と思われる方向へ進む。僕はいつか光が見えることを信じながら、ただ一人で歩いている。無心で、全てを諦めたように。だが時折、暗闇の向こうから誰かの声がかすかに聞こえる(気がする)。それは僕の家族や友人の声であって、僕の愛している(と、たぶん思う)女の子の声だった。僕はその声を精神の強壮剤として、日々を生きることができた。

 僕はカルピスを飲み、顔を上げる。飛行機が一機飛び立つところだった。僕は大きなガラス窓越しにぼんやりと見上げながら、やはり頭は、恋愛の問題をーー彼女が僕を愛しているのか、愛しているならどれくらいかを考え始めた。この旅行では、一切の人間関係を忘れたいと思っていたにもかかわらず、そんな決心は僕の思考過多な生来の性格を変えてくれなかった。
 忘れなければならない。だけど、一度考えてしまうと、やめようにも頭から余計に離れられなくなってしまった。彼女が僕に見せた、冷たさや笑顔や策略の全てを脳内のテーブルの上に出して、ひたすら検討しようとする。そんな行為に意味はない。僕が彼女を好きなのは認めるしかない事実だし、その関係をどうしていくかは二人の間で発生する問題だ。僕一人でどうこうなる問題じゃない。

「俺ガイル」は複雑に絡み合った、三角関係を丹念に描き続けていた。学生の僕なら興味を持てたはずのストーリーも、大人になった僕には苦笑以外の何かを与えてくれなかった。僕は就職してからの半年間で考え方が変わったのか。そうだと思う。変わったというより、老けたのかもしれない。僕は恋愛の甘みと苦みを理解し始めた上で、僕が誰かを一途に受容することこそが、僕の孤独を癒す光になるんじゃないかと考え始めていた。僕が学生時代に恋人に求めていたものとは別の何かを、僕は相手との関係に求めようとしているのだと思う、たぶん。

 気が付くと、僕は落ち着きを失っていた。僕のカウンターの両隣には、一人客の女性がそれぞれ座ってきていた。僕は余計なことを考えていたせいか、なんとなく視線が気になり、神経症気味になっていた。僕は静かすぎるこの場所が、かえって僕の心にとって安全地帯ではなくなっていることに気づいた。僕はゆっくり荷物をまとめると、その場から移動することにした。

 ◇

 函館空港行きの最終便が、僕の乗る飛行機だった。金曜日ということもあってか、ほぼ満席に近い機内は、人が多くて気詰まりだった。僕は窓側の席に座り、堀辰雄の小説を読みながら、一時間半のフライトを過ごすことにした。機体はほどなくして羽田を飛び立ち、雨雲を通過しながら高度を上げていった。発射時にかかるGも僕には大して楽しみなイベントではなくなっていた。初めて飛行機に乗ったときの感動……そういったものはもう戻って来ないのだ。

 読んでいた小説は、都会の喧騒から離れた軽井沢での日々を描いた『美しい村』だった。堀の美しく透明な文章に、僕の心も次第に穏やかになってきた(この小説もまた、主人公と少女のプラトニックな恋を描いていたが)。
 すると、隣の老夫婦の会話も男女の会話というより、他人の会話という気がしてきた。僕の後ろに座る子供が席を揺らしたり、泣いたりするのも気にならなくなってきた。僕は一人の世界に浸って――いつ以来だろう?――集中して読書をしていた。
 そう、一人なのだ。もう外の世界を気にしなくても良い。家族も友人も仕事も恋愛も、全て地上に置いてきた。僕が旅行をすることで手に入れたかったのは、きっと、この自由なのだと思う。もう、何も僕を縛り付けるものはない――僕は非常に心強い気持ちで読書を続けた。ページをめくる手は休まらなかった(のちに、僕が読書に集中していたと思ったのは、高度のせいで耳が遠くなっていただけだとわかった)。

 ◇

 函館に着いて、空港内を移動している間にも、僕は外気の冷たさを感じていた。東京の最低気温が十五度くらいであるのに対し、函館の最低気温は五度だった。僕はコートを着てきたことに安心し、片手をポケットに入れたまま前襟をぎゅっと締めた。
 手荷物を受け取って外に出ると、駅までのシャトルバスが到着している。完全に着席する、修学旅行で乗るようなタイプのバスだ。僕は定員ギリギリで乗り込んで、満員の憂鬱なバスで函館駅まで向かった。それでも僕はなんとなく自由を感じていた――

 二十一時頃、ニ十分のバス移動を終えて函館駅に着いた。僕は冬の乾いた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。東京とは空気が違うなんて抒情的なことを言うつもりはないけれど、どこでもすぐ近くに海と山がある函館は冷たくて心地の良い風が常に吹き抜けていた。
 まず、僕はJRの駅舎をスマホで写真に撮った。今回はきちんと写真を撮ることを決めていた。見返すことは、たぶんそんなにないだろうけど、何かの思い出になるはずだった。
 それから僕は、宿泊予定のビジネスホテルを目指して歩き出した。歩いて三分とかからない場所にそれはあった。十階建てほどのシンプルなビルだ。隣には、もう今日は閉まっているラーメン屋がある。そう言えばどこの店も結構閉まっていたなと思う。店を横目にホテルに入り、受付でチェックインしようとすると、入り口左手側にセルフチェックイン機があるのに気付いた。僕は受付の係と話さなくて良いことに満足しながら、スマホを片手にチェックインを済ませてしまった。カードキーを発行し、822号室までエレベーターで上がる。エレベーターは一台しかなかった。きっと不便だろうなと、僕は構造上の欠陥を内心で嗤った。

 客室に入ると、そこは確かに予約時に写真で見た通りの部屋だった。ベッドがセミダブルで、間接照明があること以外は、僕の東京の住まいと大して変わらなかった。狭くて必要最低限だ。僕は東京の住居を、仮の住居と思っている。収入が上がれば別の所へ引っ越すし、結婚すればまた――結婚について考えるのはやめよう。
 僕は荷物をまとめると、晩ご飯を食べるため、財布とスマホだけを持って外出することにした。函館に数店舗あるラッキーピエロという店が目的地だ。そこは二十二時まで営業しているとのことだった。どうも奇抜な店の装飾とハンバーガーやオムライスが有名らしい。
 ホテルを出て、地図アプリを頼りに夜の函館を歩き出した。夜の街は、ひっそりと静まり返っていた。数組の観光客とすれ違うばかりで、それ以外は車ばかりが走っている。地元の人は恐らく夜間は出掛けないし、出掛けたとしても車を使うのだろう。居酒屋やバーがちらほら何店舗か開いていたが、僕にはなかなか入る勇気が出なかった。
 でも僕は観光客として、ずかずかと無遠慮に街を歩いた。函館の道は、東京と比べてずいぶん広かった。車が五、六台は行き交うことができそうである。そういえば、去年行った札幌もこのように道が広かった。明治時代以降に開拓された近代都市――その都市機能的な構造と、広い大地のわりに入植者に恵まれなかった人口密度の低さ(寒冷な環境だからだろう)が北海道独特の雰囲気を醸し出している。
 脇道に入るとしばしば歩道と車道を区別する白線がなく、道がパッチワークのように舗装されて、でこぼこだった。おかげで僕は何度も靴底を擦って歩くことになった。
 僕はその道に懐かしみを覚えながら、道を間違えないよう慎重に目的地へ向かった。寒いなと内心で愚痴をこぼしながら、五分とかからずラッキーピエロにたどり着いた。店の前まで来ると、明らかにそれとわかる外装をしている。赤鼻の不気味なピエロがお出迎えしていた。扉を開けて店内に入り、二階の飲食スペースへ向かう。貼り紙と横文字の多い内観から、僕はアメリカンな雰囲気を感じた。

 僕は注文システムをあらかじめ把握していなかったのだけど、どうやら最初に注文し、その場で受け取って席に着いて食べるシステムらしい。店内を見渡すと、ボックス席で数組の家族や友人連れと思われる人たちが、すでに会話をしながら食事をしている。僕も地元の人間だったら、きっと友だちと来て、行きつけにしていただろう。
 注文待ちの列はそれなりに長く、僕はぼんやりと店内を観察していた。メニューがわからないから、レジカウンターの上にあるメニューを何度も眺めた。でも、結局何を頼んだらよいかわからなかった。ここに恋人がいたらAとBどちらも頼んでシェアすることもできただろうし、友達がいたら「ここに来てそのチョイスはないだろ」と忠告をくれたかもしれない。でも、僕は一人で全てを決めて、一人分だけしか食べることができない。それは寂しいことでもあり、自由でもあった。僕は自分の好きなものを選ぶというより、とにかく一番人気を選ぶことにした。そうしておけば間違えることはないと思うから(間違いなんてあるのかわからないけど)。

 順番待ちをしている途中で、「以降は持ち帰りのみです。今並んでいるお客様で最後です」とアナウンスしている声が聞こえた。僕はそれほどショックではなく、お酒でも買ってホテルでゆったり食べようという気になっていた。むしろその言葉を僕は待っていたかのように感じた。そんな態度じゃ一人旅は楽しめないぞと思いながら。
 ようやく僕の順番が回ってきて、レジで注文を告げる。チャイニーズバーガー(照り焼きのから揚げとレタス、マヨネーズが入った大きなバーガー)とラッキーポテト(チーズとデミグラスソースのかかったフライドポテト)、烏龍茶のセットを頼んだ。それから入り口で出来上がりを待った。
 受け取りは、準備ができた順に控え券の番号とともに手渡されるらしい。僕はスマホを見ながら、他の客の様子を観察していた。子連れ、夫婦、外国人、若者の集団……どれも僕と近しい属性の人はいなかった。僕はどこか安心感を覚えてリラックスしながら、完成を待った。

 僕の前の番号が呼ばれると、帽子をかぶったおじさんが「はい」と言って商品と引き換えた。外国人の店員が「はいありがとうございます」と渡してそそくさと厨房へ戻って行く。すると、彼の奥さんらしい人がやって来て、「もう呼ばれたの? ねえ○○番だった? △△番じゃないよ。ねえ間違っているよ。ねえ違うよ、ねえ○○番じゃないよ、ねえ間違ってるよ」と、彼を責め始めた。「え、合ってるよ。あれ」と夫は動揺しながら袋を開けると、「ねえやめて開けないよ」と奥さんに叱られていた。僕は内心で苦笑した。しかし、それはまた僕の将来の姿かもしれなかった。僕は憂鬱に傾きそうになる気持ちを抑えながら、努めて冷静に夫は尻に敷かれるくらいでよいのだと観察していた。だいたい、僕の経験則から言って、僕は女性の尻に敷かれる以外の選択肢はないのだ。
 やがて僕の番がやって来て、注文したものを受け取って店をあとにした。店を出る頃には、その夫婦の今晩のぎくしゃくした空気について想像することもやめてしまった。ご愁傷様くらいには思ったかもしれない。

 ◇

 ホテルに戻ると、僕はハンバーガーにかぶりついた。コンビニで買った缶チューハイと揚げ鳥も共にホテルのテーブルに広げる。一人暮らしをし始めてから、一人の食事には慣れた。普段と変わらない食事風景だ。
 いや、でもこんなにジャンキーな晩ご飯を食べたのは久々かもしれない。旅行という特別な体験をしている以上、それも構わないことなのだと、僕は羽根を伸ばしてくつろいだ。天井を見上げながら、明日こそは丸一日、自分のために使うのだという気持ちになっていた。

 僕を束縛するものは、この北のはずれの町には何もないのだった……
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